ソフトテニス史

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= ソフトテニスの歴史と京都・同志社 =

 日本独自のゴム球を使った軟式庭球は1884(明治17)年に体操伝習所で誕生した。同23年に「三田土護謨会社」が「赤M」ボールを製造した後に老若男女を問わず楽しめる生涯スポーツとして全国に普及していった。

草創期の明治時代後期には京都でも様々な対抗戦や大会が催されるようになった。記録や逸話を丹念に整理された京都府ソフトテニス連盟創設70周年記念誌によると日本で初めて庭球部を創設した東京高師(現筑波大)が1902(明治35)年3月末の関西遠征で京都師範(現京都教育大)を訪れている。そのころ「同志社は安部磯雄氏の中学・教頭時代、神学館の東側にコートを設け有志の倶楽部を組織して盛んに行ったが安部氏が去って以来やや停頓、後、明治37年寮裏の新コートを使って盛んに練習を行ったが、当時対抗試合が行われていなかったので余り振るわなかった」(同記念誌)と記されている。また翌1904(明治38)年4月には京都帝大対東京帝大の第1回定期戦が東京帝大・山上御殿下コートで開催されたとある。この頃から旧学制体制のもとで各中学・高校・大学間での対抗戦や交流大会などが関西各地で盛んに繰り広げられた。

京都におけるソフトテニスの歴史を細部に渡って記録した同記念誌は同志社大学京田辺校地にある体育会ソフトテニス部の部室にも1冊保管されている。戦後史が主になる同志社大学体育会ソフトテニス部の近世史概要は2010(平成22)年に編纂された創部80周年記念誌「文武両道-紫紺の魂に籠めて-」に纏められている。ぜひとも併せてご参照いただきたい。ソフトテニスはどの競技にも負けない豊かな歴史と伝統を誇っている。学都の京都でその一端を担ってこられた先人たちの弛まぬ歩みに深甚の敬意を表したい。

日本体育協会の2010(平成22)年度調べによると組織化して120余年が経つ日本ソフトテニス連盟への加盟登録者は約46万人に及ぶ。体協加盟56団体中の5番目(最多は約161万人の剣道。約118万人の軟式野球、約90万人のサッカー、約61万人のバスケットボールと続く。6位は約43万人のバレーボール)につけている。五輪種目ではないが故にマイナーの認識に甘んじてはいるものの競技人口のうえでは昔も今も一大メジャースポーツなのである。

よりいっそうの拡大発展を願う同連盟にとって国際化は長らく至上命題となってきた。1956(昭和31)年にアジア大会を開いて少しずつ地歩を固めてから1974(昭和49)年に「国際軟式庭球連盟」を結成した。翌1975(昭和50)年にはハワイで第1回世界選手権大会の開催にこぎつけている。

国際競技としての認知もいまや世界的に進みつつある。1990(平成2)年の北京アジア大会で公開競技に採用されたのち1994(平成6)年の広島大会で正式競技になった。この間の1992(平成4)年に軟式庭球という名称をソフトテニスに変更して国際化の流れを加速させた。

2003(平成15)年に広島市で開催された第12回世界選手権大会にはこれまで最多の30カ国・地域が参加した。現在はこの世界選手権大会とともにアジア選手権大会・東アジア大会・アジア競技大会が4年に一度ずつ開かれている。