OB追想《若草萌えて地に生き》-英雄たちの青春群像-

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~80周年記念誌(コメント集)~

《若草萌えて地に生き》-英雄たちの青春群像-

(文末※印分は200字縮小前の原文が80周年記念誌・別添CD-ROMに収録済みです。是非ご覧下さい)

昭和25年卒・岡野久二

1947(昭和22)年に同志社外事専門学校から同志社大学に進学した。その年、大学に軟式庭球部は出来たが、戦後のことで体育会も予算が乏しく、書籍費や下宿代の一部がボール代やコートの借り賃に化けた。それでも部生活は楽しく、戦績は良くなかったけれど和気藹々で結束は固かった。現在の隆盛を見ると隔世の感があるが、貧しく脆弱でも私たちの軟式庭球部はそれなりに私たちの青春であり、ロマンであり、生きがいでもあった。※

 

昭和28年卒・澤田亘宏

60年前の部活・・・思い出すままに ○遠征-昭和24(1949)年秋 立教大学との復活第1回定期戦のため夜行列車で東京へ。米6合を持参(当時米は配給制度)し高田馬場のホテル平和に宿泊。祝勝会は怖いもの知らずで新宿(赤線あり)へ足を伸ばす。

○コンパ-飲み物は合成清酒のブドー酒割り。つまみは焼きスルメと煎豆。それで十分だった。物乏しけれど心豊けし4ケ年の青春時代。友よありがとう。感謝。

 

昭和28年卒・村上幹郎

敗戦後の学制改革で新制大学がスタート。軟式庭球部が産声をあげたところへ瀬戸内海のほぼ中央にある尾道市因島から上洛。同郷の岡野久二先輩の下宿に居候したのが縁となってネット抱え練習コート探し。御所や二条城内のコートは奪い合いだった。2年後に今西正雄教授を部長に迎え今出川の中学部敷地にコートを建設。丹後の宮津で合宿もした。この間、主務だけが知る数々のエピソードがあるが枚挙のいとまがない。残念、合掌。

 

昭和28年卒・藤澤哲二

61年前の昭和23年、旧制中等学校の5年を経て旧制同志社高商に入り、翌24年に新制大学へ編入学。旧制大学3回生の岡野久二、伊佐美道夫両先輩の指導を仰ぐ。旧制大学では岡野、仲村要両先輩によって軟式庭球部が創部された。従ってそれ以前の方々は渡辺敏一先輩をはじめほとんど高商出身です。現在の大学の約30分の1ぐらいと数少ない旧制大学は権威があり、格が違う感じで、先輩の皆さんは上級生というよりすでに大先輩でした。

 

昭和29年卒・中村秀夫

昭和25年度は各府県の高校の精鋭が多数入学し、一躍部の雰囲気に活気をもたらした。その後、期待に背かぬ実力を備えて特に27、28年度は戦後の黄金時代を築き上げた。27年度は全日本学生選手権決勝で明井・八木組が鳥井・朝倉組に4-5で惜敗した。28年度は選手の陣容も豊かで団体・個人とも多くの大会を制し、念願の全日本大学対抗で初優勝を飾った。27、28年は学生軟庭界の名門としての地位を確立した記念すべき年となった。

 

昭和29年卒・梶川瑛夫

同期入部19人。80年の歴史の中で最も多い年です。時間をかけて整備した今出川校舎のコートで乱打すら限られた時間で交代しました。団体戦の代表選考は全員のリーグ戦で決めるため本番以上に力が入りました。高校からのペア八木君と西日本大学新人大会で優勝した事は生涯忘れられません。私は今年傘寿を迎えます。物故者が年々増えて淋しい限りです。現役諸君はわが部の伝統と誇りを胸に優勝の二文字に向かって邁進して下さい。※

 

昭和29年卒・八木満

3回生の4月に定期戦で惜敗した。その夜の渡辺監督は丸坊主だった。「皆も刈れ」。私は従わず6月に入っても独り髪を伸ばしていた。出した退部届けは藤澤主将が受け取らない。今西部長の説得に結局折れて床屋行きとなった。音楽好きで紳士だった今西先生、渡辺監督、藤澤先輩にSPレコードを借りた。関係者が体育会系丸出しならばあの時退部していただろう。いつも誰かに支えられてポイントを切り抜けてきた。不思議な思いである。※

 

昭和29年卒・飯田睦郎

昭和28年6月の台湾事件後、就職活動中に呼び出された7月の西日本大学対抗(出場せず)に続いて全日本大学対抗に臨んだ。今回は出場機会に恵まれ初めて組んだ木島選手と準々決勝は早大に敗れたが準決勝、決勝と快勝した。一生忘れられない青春の思い出の大きな1頁を飾ることができました。岡野久二監督はじめ共に活躍した明井・八木組、末廣・木本組並びに必死で応援していただいた皆様方に誌上で改めて厚くお礼申し上げます。※

 

昭和29年卒・末廣隆

昭和28年8月に伊勢市の全日本大学対抗で優勝した。明井・八木組が燦然たる活躍でした。宿舎は麻吉で長男が同大生との縁で以後常宿になりました。女子優勝は同宿の共立女子大で大会後に奈良を案内しました。拙宅での会食模様が今も目に浮かびます。9月に信州上田の全日本学生で3位入賞しました。足利の木嶋君宅でお世話になった翌日に今度は共立女子大生に東京を案内してもらいました。何故か共立の紺野選手が印象的でした。※

 

昭和31年卒・安田満夫

「世界にはばたくソフトテニス」

○我が国に生れ育って一世紀余 ソフトテニスは世界にはばたく

(1884年生れのソフトテニス125年の歴史)

○灼熱の太陽のもと黙々と ローラーを引きし日々ぞなつかし

○梅雨空をうらめしく思う昔日の 想い出はるか屋内のコート

 

昭和31年卒・古谷英男

『古さんの寝言』-4年間を過ごした京都には思い出が一杯ある。私は硬庭の推薦で入学し、先年逝かれた渡辺先生に勧められて軟庭に入部したので同級生より半年遅れだった。テニスコートも相国寺の隣にあった。その後丸太町そばに出来た御所のコートになった様に記憶している。私はテニスは弱かったが、麻雀は万年荘の代貸と云われたのを思い出す。自己紹介は同志社大学軟庭部と云っていた半世紀以上も過ぎた昔を懐かしく思い出した。

 

昭和31年卒・亀岡成昌

体調の関係もあって2年からマネージャー補佐として裏方に回りました。監督や先輩との交流では親身になっての指導や相談に乗っていただき、同期生とは協力し合い(最近も同期会開催)後輩への思いやりなど部の絆づくりの体験が出来たことは長い人生航路で大いに役立ちました。卒業後もハンドボールを含めて指導者として経験を積ませてもらいました。80周年記念誌の端に「感謝」の気持ちを伝えていただけば幸いと思っています。※

 

昭和33年卒・吉岡健一

3、4年次2年間主務を務めました。昭和31年に丸亀市での西日本大学対抗で木嶋・福本組の大奮闘で初優勝し全日本でも準決勝まで進出しました。翌年の全日本は2回戦で東洋大に敗れました。中辻・内田組の西日本準優勝が唯一の慰めでした。私の自慢は今や全国的に普及したスコアブックの記入方法は同志社が元祖だということです。名人と称された呉啓三郎氏が考案されたのを、許可を得て、私が練習や試合でつけ始めたのでした。※

 

昭和33年卒・田口敏弘

卒業し50数年。大阪本社、東京支店を経由、北海道工場設立に出向、北の地で40数年。定年後はお世話になったこの地に少しでも恩返し出来ればと市長に頼まれた役目をどうにか消化している昨今です。西日本が松山と聞いて大変懐かしかった。高校3年の国体、大学1年の春合宿は新居浜、2年春からは松山の道後温泉小川屋?と記憶しております。キツイのは合宿の常。練習後、電車を横目のランニングが今では良い想い出と云えます。※

 

昭和35年卒・酒井宏

ときおり、人生で最も楽しかった時期は、いつだったかと振り返る事がある。答えは決まって同志社大学の軟式庭球部で過ごした4年間に落ち着く。意欲にあふれた良き先輩、仲間と充実した時間を過ごしたからであろう。しかし、周りを見れば同僚の友田・団野の両氏、渡辺部長、仲村監督もすでに鬼籍入り。「あのボレーをお前が決めておれば優勝だったのに」といういつもの話を肴にまた一杯やりたいもの。もう少々お待ちください。

 

昭和35年卒・土屋寛二

それは昭和34年に産声を上げました。4月に男子4部、女子5部で中百舌鳥で第1回リーグ戦が始まりました。初めてで不安もありましたが無事に終わったことを覚えています。その6月に日比谷で関西と関東1部優勝校の王座決定戦が行われました。今日のように全国規模になるとは思いもしなかった。学連理事長として始めた試合が全国規模となるまで育ったのは自分の子供が大きくなったようで嬉しく思います。今から50年前のお話でした。

 

昭和36年卒・中野拓三

昭和32年、高校のペア笠原君と入学、皆さんに優しくしていただき、また4年連続東西対抗に選ばれ、最高の学生生活でした。お陰で京都大好き人間です。当時はコートがお城の中にあることが多く、試合や合宿は北は弘前から四国の松山までお城巡りのようでした。今思えば観光の一等地ばかり。かつてのメンバーと改めてお城巡りをと思いますが渡辺部長、仲村監督、先輩の団野、友田さんらが鬼籍に入られ、ご一緒できず寂しい限りです。

 

昭和37年卒・家村政宏

1958年度生として入学早々、体育会系クラブへ入りたくて部は軟式庭球部と決め、御所のコートへ行って当時の児玉マネージャーに入部申し込みをした。いざコートに立ってラケットを持っても球は前へ飛ぶはずもなく、渡辺部長は「君はマネージャーをやれ」と。この一言で合宿や遠征試合の計画作りが高じて阪急交通社へ就職することとなり、同志社女子大の海外留学ツアーやゼミ旅行を岡野先生にお願いして受注させていただいた。

 

昭和37年卒・林田紘

松山城の見えるコートで春合宿した。「林田、来い。乱打したる!」。晒しの腹巻を外した渡辺敏一先生に手解きを受けた。“ビンちゃんの実技指導”はこの時が最後だった。仲村要さんと呼べる親しさから始まった仲村先生との関係。園部町の実家近くの町屋の二階。新婚早々のお部屋だった。台風で傷んだ屋根の修繕を手伝ったその夜泊まった。同志社にこそあるとっておきの話である。私は本当にありがたく思い、そして同志社が好きだ!※

 

昭和38年卒・山本隆

37年度の団体戦は別記の通り見事な戦績であった。主将就任当時はOB会や先輩から“部史上で一番弱い年である”といわれて屈辱を感じた。その悔しさを胸に秘め、4年生を中心に優秀な後輩たちをまとめ一致団結して練習に励んだ。戦績はその賜物といえる。本当に良くやったと思う。部で培った根性と闘志は社会で職場で大きな力を発揮した。勉学とスポーツの両立を勝ち得た花の38年度仲間である。4年生全員と後輩に感謝します。※

 

昭和39年卒・田中克彦

卒業して45年。現役時代監督の仲村要先生をお送りする事となってしまったが先に逝ったシャラこと芝原浩二君を思い出さずにはいられない。小中高の同窓で中学時代は共に軟庭を楽しんだ。2回生の時グリークラブの彼を部に引っ張り込んだ。名主務として力を発揮した。電通に入ってから厳しいビジネス界で奮闘し40歳代前半で太く短い人生を閉じた。できの悪い我々仲間を肴に彼の地で監督さんと語り合ってくれている事を願っている。※

 

昭和40年卒・岩出正次

あれからほぼ50年が来る。瞬く間に過ぎ去った。満足に近い年月だった。「テニスの練習に比べたら軽い」と思いどんな苦しい出来事も乗り越えて来た。70歳を目前に心臓病でバイパス手術、間質性肺炎などを患う。よくぞ生あると感心している。「一生現役を貫くぞ」-あの苦しかった練習を思い出し・・・。だけどどう辛かったか覚えていない。きっと辛かったのだろう。そんな自分の足元を見ながら一歩でも多く歩こうと歩を進めている。※

 

昭和40年卒・山本毅

私が全日本学生で優勝できたのは第一に仲村要監督という人間味溢れる偉大な教育者に支えて頂いた事。第二に磯貝という攻めに徹した強気の前衛と組んだ事。第三に竹田・森下という天才ペアと常に競えた事。第四に先輩後輩から全面的な応援を得られた事である。卒業後に大学のコーチ・監督を15年間務め約150人の選手たちとの縁が得られた事は生涯の宝物です。仲村先生に改めて感謝致しますとともにご冥福をお祈り申し上げます。※

 

昭和41年卒・土田(旧姓桑原)康輔

監督として指導いただいた故仲村要先生の的確な読みと采配は今も心に深く残っている。昭和40年の全日本学生王座決定戦で初優勝を遂げた。相手は関東の雄、中央大学。3-2の大接戦だった。その2週間前。4回生のまとまりが悪く、練習にも熱が入らない毎日だった。仲村監督は「このままでは王座は取れない。4回生全員で飯を食べようか」と声をかけられた。早速「鶴清」ですき焼きを囲み、この時に王座に向けての団結が固まった。

 

昭和41年卒・長澤洋三

亡き奥地真也君の想い出-三重県立津高校出身の海育ち。子供の頃の舟の事故で右手小指を欠いていた。4本指で遠心力を活かしたストロークでミスしない理想的な後衛でした。負けず嫌いの強気。いつも叱咤激励された。唯一の欠点?は女と酒に強い事。そのせいか練習を休みがちになりました。紫野高校横のコートで1年秋に彼とB級で優勝した。平成17年5月に62歳で亡くなった。いつか天国で奥地君とプレーしたいと願っています。※

 

昭和41年卒・森下直明

昭和37年、我々17人もの個性豊かな新入生が大学の門をくぐった。その年の松山での春合宿に全員が顔を揃え、大学でのクラブ生活はスタートした。「テニス馬鹿になるな!」という仲村要監督の薫陶を受け、練習に励みつつ、よく学び、よく語り、よく遊び、よく飲んだ充実した4年間でした。個人戦・団体戦ともに全国制覇の夢を果たせなかった悔いは残るものの、主将として臨んだリーグ王座決定戦の初優勝と当時の仲間は私の至宝です。

 

昭和41年卒・湯浅(旧姓佐井)孝治

17人の個性溢れる仲間と道後温泉合宿から最初のシーズンが始まった。ぶつかり理解し合って絆が生まれていった。夕食後は歌の特訓。指導は芝原さん。OKが出るまで外出できない。温厚な丸顔がだんだん厳しくなった。あれは辛かった。道後温泉で下級生同士の裸の触れ合いもあった。こうした連帯と仲間意識が積み重なって80年の輝く伝統が有る。コートで懐かしい顔、弾けるような笑顔を見るたびにこの部でOBで良かったと思う。※

 

 

昭和42年卒・山川紘二

マネージャーとして仲村要監督と2年間過ごした。監督の人間観察力は鋭かった。そばで感じた“誠実”を座右の銘としてきて本当に良かった。西日本大学対抗4連覇でホッとし、打ち上げで酔って洗面器を抱えて寝る羽目に。酒も気力で酔う、酔わないと知った。「営業にだけは行くな」といわれたのに営業第一線で現役30有余年。“誠実”を旨としたお陰でしょうか。今も「仲村要」と「同志社大学軟式庭球部卒業」を誇りに思っています。※

 

昭和42年卒・竹田幸市

憧れの大学に入り岩倉の新設3面コートで比叡山を眺めながら全員が競争意識を持って練習に励んだ。活気に満ち溢れていた。我々12人は仲村要監督に「スモールジェントルマンの集団」と命名された頼りない学年だった。法政との六大学王座前に雀の丸焼きで気合を入れてもらった。西日本の大学対抗4連覇と中井・友次優勝の喜びは格別だった。ソフトテニスを愛し夢中になった4年間。数多くの貴重な経験ができたことに感謝したい。※

 

昭和42年卒・中井靖彦

先ずもって同志社と関わりを持てたしあわせに感謝!「同志社スポーツの4年間」この言葉の響きは半世紀近くを経た今も色褪せることはない。「優秀なプレーヤーである前に良き学生たれ。一人の人間として尊重される」。これがわが部の全てを物語っている。部員たちはプレーヤーとして学生・人間としての成長を部に求めてほしい。40、50人が活躍する部を!渡辺、仲村両先生を偲びつつその日が来るのを遠く離れた地から祈っています。※

 

昭和42年卒・小坂賢一郎

昭和38年3月。高校卒業と同時に先輩に誘われて京都御苑へ。春のトレーニングに合流。その後神戸埠頭から関西汽船で松山へ。桜が咲き始めた松山城下のコートで初合宿を体感。皆凄かった。コートの後ろで恐ろしい顔で腕組みしていたのが仲村要監督だった。夕方には腹ペコ。松山在住の高橋先輩から毎夕パンが届いた。嬉しかった。その後の4年間、苦しい事も色々あった。まもなく65歳。今は楽しかった事だけが思い出される。感謝。※

 

昭和43年卒・土屋清治

入学してすぐ体育会の英志寮に入り、軟庭部数人と1年間一緒にいたが私だけ最後の寮長として渡辺先生と3年間過ごしたのが思い出されます。あれからもう43年も。11年前に糖尿病が悪化して退職し、治療の為にテニス三昧の日々を送っています。年に2、3回試合にも出てますが、テニスエルボー、膝、白内障と次々故障し、やっと9月に北海道ねんりんピックに出場したが1位トーナメントで負けました。来年から壮年3部で頑張るぞ!

 

昭和44年卒・米沢哲男

「米沢が遅れまして、一緒に来られませんでした。あっ!何で?お前ここに・・・いんねん!?」。まるで幽霊でも見るような顔で叫んだのは杉村正雄君でした。初めての松山の合宿。朝早く梅田での待ち合わせに遅れてしまい、慌てて伊丹へ。キャンセル待ち1時間の後、無事に松山空港へ。

杉村ニタ雄君、いや正雄君、ホントにごめんなさい!43年前の事です。

 

昭和44年卒・安本良雄

学生時代のテニスが不完全燃焼に終わった反動からか、遊びで始めたはずの硬式テニスに不思議なくらいのめり込んでいる。東北選手権(60歳シングルス)ベスト8で取り組み姿勢が一変、岩倉コートで練習に明け暮れた日々と変わりはなく、プレースタイルも軟式テニスがベースになっている。30年ぶりのハードトレーニングが原因で股関節を痛めて先般、手術に踏み切った。現在、来春からのトーナメント復帰に向けリハビリに励んでいる。

 

昭和44年卒・三谷博信

『ウソのない生活(人生)を!』 卒業して40年余。想い出も少々薄らいだ昨今です。工学部のため3回生から実験・実習が始まり、実際の部活は2年間で終わりました。しかし渡辺敏一先生や同級生の計らいで卒業まで部に在籍させて頂きました。追い出しコンパで標記の言葉を教示され爾来、座右の銘としております。4年間はその後の人生に無形の得を齎しました。感謝とともに軟式庭球をしていて本当に良かったと思っております。※

 

昭和44年卒・下川一雄

卒業後はや40年余。薄れがちな記憶を辿ると①仲村要監督との出会い。オリエンテーリングで相談に行った先生が監督と後で分かりビックリ。②初練習日が慶応大との定期戦。素晴らしいプレーを見て感激。俄然やる気を出したこと。③合宿での「手が飛ぶぞ」事件。監督に絞られる。鉄拳制裁厳禁。良き伝統が今も続き素晴らしいこと。④副将に任命され驚き、西日本団体戦で優勝しホッとしたこと等々思い出されます。良きクラブ生活でした。

 

昭和44年卒・杉村正雄

昭和42年の冬のことです。京都高島屋でアルバイトをしている時、突然に仲村要監督が来られて「杉村、技術委員長をするか」と云われ、一瞬返答が出来ませんでした。京都、関西、西日本の技術委員長および全日本の副技術委員長という大役なので、しばらく考慮した後、「やらしていただきます」返答しました。そうすると仲村監督は「そうか、そうか」と云うような感じでうなずかれました。今でも一番記憶に残っています。

 

昭和44年卒・門井興蔵

卒業後40年余。当時を振り返るいい機会を頂いた。同志社にあこがれ、先輩にあこがれ、念願叶っての学生生活。それは、軟式テニス部の4年間であった。職場等で「何学部を卒業したの?」と聞かれる度に「同志社大学軟式テニス部です」とよく答えたものだ。英志寮では渡辺敏一先生に、主務時代には仲村要監督にお世話になった。いや、よく叱られた。お二人とも故人になられ、京都を遠くに感じるようになったのは自分だけか…。

 

昭和45年卒・丸尾孝司

1人の奈良の田舎者が、井の中の蛙というか、同志社に飛び込み、レギュラーとしてその年の秋の六大学リーグに出場する機会が廻ってきた(前衛が少ない為と思う)。緊張からか、頭が真っ白になり、身体が動かずボレーどころではなかった。その時、背後より「丸尾!荷物まとめて奈良に帰れ!」との罵声が飛んで来ました。仲村要監督である。その一言がいまだに忘れられず「しっかりしろ!」と言い聞かされている気がしてなりません。

 

昭和45年卒・藤田和彦

1年生でレギュラーになった。1本抜かれたら2本出て取る怖さ知らずが通用したのか?王座のかかる関学戦の5番勝負で相手スマッシュが思わず出したラケットに当たった。どうして勝ったか分からなかった。日大との王座戦では見事に負けた。無我夢中ほど強いものはないが冷静さを失うほど弱いものもない。「四つに組め。相手と相方の強み弱みを考えて試合しろ」-仲村要監督の言葉の意味が60歳を超えた今分かったような気がする。※

 

 

昭和45年卒・八木義明

同志社への強い憧れ。入学の悦び。負けて負けて勝てなかった。時々勝てるようになった。スキーで大ケガをした。股関節が壊れてしまった。先が見えなくなった。みんなに迷惑をかけた。スネて暮した。OB会に誘われ、勇気を出して出席した。差し出した手を先輩が何も云わずに強く握ってくれた。仲村先生が唇にキスをしてくれた。今も先輩、後輩、同輩が付き合ってくれている。ここまで充実した人生を送ることができた。ありがとう。

 

昭和45年卒・辻憲三

「ホンマにこのメンバーでいくんやな」「ハイ。総合的に見て最良です」「ウーン」-我々幹部が全日本選手権のメンバーを仲村要監督宅に持参した時の一こまだ。「単位を十分取れてへん者がいる。ええんか?」。予期せぬ言葉で早々と辞した。「たまたま軟式庭球部所属だが本来は大学生であり、本分は勉学である。努々忘れるな」。常々の言葉を思い起こしながら再度メンバー編成に取り組んだ。約40年前。昭和44年7月のチョットした出来事!!

 

昭和45年卒・匿名希望

※「三コート」。岩倉にあった3面のコートのうち、レギュラーになれない、所謂今で言う負け組が練習するコートを自虐的にそう呼んだ。多分どの時代も「三コート」で練習した者は、少なからず敗北感を感じて卒業して行ったに違いない。私もその一人だが、その経験がその後の人生に役立ったのか?勝利者でありたかったという思いは今でも強い。だが現在、勝ち負けを越えて年に一度の同期会は、私にとって貴重な年中行事となっている。

 

昭和45年卒・上田信一

高校生の時、王座決定戦を見学し、同志社大学の選手たちの華麗なユニフォーム姿とプレーに魅せられ、大学テニスのレベルの高さを思い知った。入学後、実力を考え入部をためらったが思い切って門を叩いた。原稿作成に際して改めて思うのは今は亡き仲村要監督の「相手の立場になって考えろ」という教えである。物理的には不可能な「他者の立場になる」という意味の大切さ、難しさは現在に至るまで私に大きな影響を与え続けている。

 

昭和46年卒・塩見元宣

山肌の桜花をかき分けケーブルカーが山頂へ。石灰を溶き松葉を束ねてラインを引く。それが始まりだった。授業も練習も中途半端。だが同志社でテニスをしている誇りと自信はあった。師匠には恵まれた。『なんでも真面目に』-温かい教えも当時は馬耳東風。師匠批判の挙句に雪の修学院で真夜中の笠地蔵。奥方に助けられ大反省。で卒業。それから40年。『人が育つ、人を育てる』-をテーマとしてきた。すべて同志社大学、万歳である。※

 

昭和46年卒・平木義光

入学して1年が経過した、春うららなある日。部員全員???が1年間の学業成績表を持参して、今出川校舎の1室に集められた。一人一人、成績表を持って仲村先生の待つ教壇へ・・・。いよいよ私の番だ。少し緊張しながら成績表を差し出した。仲村先生が一言。「テニスをやめたら、もっと成績は上がるか?」。テニスを続けたい一心で、「こんなものですね」と返答し、大変叱られた。仲村先生の「文武両道」の教えが今でも思い出される。

 

昭和46年卒・津禰鹿康朗

昭和42年入学前。御所での合同自主トレで初めて諸先輩とお会いした時「さすが大学体育会クラブだな」と思った。頭の少し禿げ上がった人、恐い顔、目つきの鋭い人。それにまずビビリました。松山での合宿。「カレッジソング」他数曲の歌を覚えなければ連帯責任、夜の外出禁止。もう必死!40年前の写真を探し出して見ると「皆の輝いた笑顔」。超最高!!素晴らしい思いで一杯有難う。渡辺敏一部長曰く。「まだ終わった訳やないから・・・」

 

昭和46年卒・野呂恒美

数年前の秋、家内と娘二人の4人で京都を訪れようと名古屋から名神高速で草津から琵琶湖大橋、途中峠、大原を抜けて岩倉に出ました。その時、岩倉のコートがどうなっているのか見たくなり何とか辿り着きました。しかし、そこはススキの枯れ穂で埋め尽くされ、当時の様子は見る影もありません。40年前に汗を落とし、無心でボールを追いかけた名残は周囲の金網だけでした。一抹の寂しさとともに、改めて過ぎた歳月の長さを感じました。

 

昭和46年卒・元井博文

明星高校から憧れの同志社大学に進み、名門の大学でテニスができて大変幸せでした。高校の時は負けた悔しさと勝った喜びも教えられましたが、大学の4年間はここ1番という大事な試合で負けた思い出ばかりです。今度は頑張ろうと思っている間に卒業した気がします。テニスでは少し悔いが残りますが、青春を謳歌できて素晴らしい4年間でした。

 

昭和46年卒・波多野文久

学生生活最後の夏の大会を欠場してホームステイの為米国に行きたい旨申し入れたところ、監督・キャプテン・マネージャーは寛大にも許してくれた。帰国後、同志社の仲間たちは、そんな身勝手な放蕩者を大切な六大学王座決定戦のメンバーに選んでくれた。幸いにもパートナーの活躍のお陰で勝利できました。それは夕日のよく当たる岩倉の第三コートの常連の男が初めて皆に少しでも貢献できた出来事でした。感謝。

 

昭和46年卒・高橋寛

「お前はコカ・コーラや」。憧れのジャンパーに袖を通した春。渡辺敏一部長に頭を撫でられた。「スカッと爽やか」-こんな乗せ方がまたとあろうか。奈良合宿の夏。拙い日記「徒労」を取り上げて仲村要監督が一言。「アカン。題が暗い」-褒められ、叱られ…常に絶妙の呼吸に包まれていた。あの4年間が永遠になった。身勝手なピーターパンも還暦をとうに過ぎた。心はいつも同志社ネバーランドにある。お二人と再会できる日を気長に待とう。

 

昭和46年卒・出口正次

「デグー!もっと遊べ!もっと楽しんでテニスせえ!」-仲村要監督から4年間このアドバイスを受け続けたおかげで人生が開けた気がする。卒業後一般企業に勤めたがテニスを忘れられず小学校を経てカタール日本人学校、中学教員として子供たちに「遊べ、楽しめ」と教えてきた。4月から地元の支援学校で週3日勤め大手前学園でも教えている。監督が亡くなり今後行き詰まった時、誰にアドバイスを求めればいいのか思案している。※

 

昭和46年卒・河合洋一

クラブ部生活の中で最大の不運(後悔)が今なお忘れられません。4年の時、西日本大学対抗で優勝し、全日本も大いに期待されており、気合を入れて臨みました。団体戦最終日の試合前にガットを張り替えていた時、目打ちを誤って太腿に刺してしまいました。トレパンが一瞬で真っ赤になる程の大量出血でした。次は勝てる相手だったので試合をパスさせてもらったら、何故か運悪く番狂わせで負けてしまった。大いに後悔したものでした。

 

昭和46年卒・杉山充男

高校時代の戦績も無く、大学のテニスが、同志社大学の軟式庭球部が、如何なるものか知らなかった。たんにテニスがしたいと考えていた私が入部したのは入学後間もない教室で同期の高橋寛君と出会ったことがきっかけだった。テニスでは活躍出来なかったが4年間を楽しく過ごした。その後もOBとして部との関わりは続いている。仲村先生をはじめ、多くの先輩・後輩諸氏との出会い、そして10人の同級生との繋がりを今後も大切にしたい。

 

昭和47年卒・後藤憲介

「ウン!」-1回生、松山の合宿。乱打の時の仲村要先生『監督さん』の一言で始まった我が同志社大学軟式庭球部人生。右も左も判らず、有名選手の中で反発もしながら、小さくなっていた自分にとって、いかに救われたことか。ここ、この場所に居てもいいのだよ、と優しく認めてもらったような気がして。仲村要監督、山本毅コーチ、先輩、同輩、後輩の皆さん、ありがとうございました。同志社大学軟式庭球部は、「心の故郷」です。

 

昭和47年卒・世利博得

学生時代、個人的なことでテニスを思う存分出来なかったのですが、仲村要先生や諸先輩・同級生そして後輩の方々の温かい応援があり、テニス部を卒業出来ました。それがあったからこそ皆様方といまだにお付き合いをさせて頂いております。又、息子も同志社に入り戦績を残してくれました。それも皆様方の応援のおかげでの結果だと感謝しております。本当にありがとうございました。これからのクラブの益々の発展をお祈りいたします。

 

昭和47年卒・北山敏隆

最後の年。春季リーグに優勝し日大と王座を争った。幹部一同自信満々だったが苦汁を飲まされた。そして夏。直前合宿を経て西日本団体優勝。一息入れてインカレ前合宿。佐世保では心身ともにクタクタ状態だった。インカレ団体ではまたもや日大に決勝で敗れた。日大の山本主将が試合後ペア変更を不思議そうに「同志社が中京に勝って厳しいと思ったが決勝のオーダーを見ていけると」。あんなこと、そんなことの全てが監督采配のヒントになっている。※

 

昭和48年卒・藤井英久

軟式庭球部は本当に素晴らしいクラブでした。入学1年目、不幸にも無期限封鎖。だが仲村要先生は部の存亡の危機でも休部ではなく自主練習。本当に民主的なクラブ!どんぐりころころ!!又、山本毅コーチには人生の歩み方を教わりました。ある強化練習を良い成績で通過。初めてメンバー入りを確信。しかし見事に外れる。腐る。その時一言。「その態度で試合に負ける」と指摘される。今ではその一言が人生観として自分に生きている。

 

昭和48年卒・永田謙逸

レンガ造りの校舎、岩倉のテニスコート、松山の合宿、一途にテニスをした4年間。今だに負けた試合を夢に見ることがある。今もって我が人生を誇らしげに語れる4年間。仲村要監督、山本毅コーチ、先輩、後輩に信頼を得る為の努力の4年間であり、今の人生の大きなバックボーンになっている。皆々様どうもありがとうございます。

 

昭和48年卒・太田徳夫

私にとって生れて初めての松山道後温泉での合宿。10本連続ファーストサービスの練習では一人で1時間以上コートを独占。昼食お預け。コーチ、先輩、同輩には大変ご迷惑を掛けました。京都学生選手権でベスト16本シードのうち12本が同志社。大変なところに入部したが4年間過ごせた事は軟式庭球部にとっては大した事ではないが、私にとっては掛け替えのない4年間でした。48年卒は永田主将とイレギュラー6名の珍しい学年でした。

 

昭和49年卒・三村正明

一浪して同志社の門をくぐった。軟式庭球部の新入生歓迎ブース前で足が止まった。同級の片寄と「うまくなりたい」一心でコートに向かった。素晴らしいプレーヤーばかりの中で続けられるか。不安はあったが4年間やり通した。仲村先生や山本コーチの指導でプレーヤー、主務として多くを学んだ。文武両立のクラブを誇りに思う。教職として集会で話す機会に部の思い出や経験を織り込める。あの4年間と今までの月日に感謝したい。※

 

昭和49年卒・内田あけみ

40年前、伝統ある軟式庭球部初の女子部員2人目として入部しました。入退部の経緯はすっかり忘却の彼方へ。経験者2人、未経験者3人の可愛い後輩が加わって勉強そっちのけで岩倉コートに通い、遠征にも出かけました。カレッジソングや応援歌は今でも歌えます。1970年代初めに突然現れて消えていった私たちのことを思い出していただけるなんてホッとうれしい限りです。懐かしさと感謝の気持ちをこめてありがとうございました。※

 

昭和50年卒・中澤(旧姓北村)典子

1971年~73年まで、女子部が少人数ながら頑張っておりました。名前を紹介します。▽70年度生 内田、長田▽71年度生 高橋、千田、山田、北村▽72年度生 忠谷-(旧姓)です。男子ばかりの体育会の中で女子部をつくるのは、先輩方の大変なご苦労があったと思います。毎日の練習、試合の応援など、体力、気力が大変だったのを覚えています。72年の西日本選手権に参加でき、声が嗄れるまで応援した思い出は貴重な経験になりました。

 

昭和50年卒・黒瀬(旧姓高橋)恵子

昨年、新聞で仲村要先生の訃報を知り「偲ぶ会」に参加させていただきました。先生を偲びつつ、懐かしい皆様たちと37年ぶりにお会いできました。女子部は初心者や数年の経験者ばかりで男子とはレベルが違いすぎ、内田先輩のもと、応援歌の練習を御所でしたり、コンパに参加したりと、本来の試合での結果や思い出が無いのが残念ですが、今も一生の友として交流が続いています。今後は会員として後輩たちの活躍を見守りたいと思います。

 

昭和50年卒・大久保幸一

奈良の地で小学校教員をしています。仲村要先生からは遊ぶ心と学ぶことの奥深さを。『賢しらに物言うよりは酒飲みて酔うなきことに優りたるなし』。山本毅コーチからは厳しさと自分を見つめることを。教員志望をお伝えした時には『人に迎合してはいい教師になれない』。今も胸に刻んでいます。未だ道半ば。人の師であることに恥じ入ることの方が多い。そんな折り、岩倉で過ごした4年間を振り返り、自分を励ましております。前へと。

 

昭和50年卒・大山憲一

1983年8月フロリダ州デイトナビーチ。Emby-Riddle Aeronautical大学大学院の卒業式会場に私は居た。約2年の修士課程を修了し経営学修士を受領した。なぜここに居るのか。不思議な気持ちのまま仲村要先生の言葉がふいに蘇った。勉強嫌いの私は2回生で留年が決まっていた。送別会で中退する旨伝えた際「騙されたと思って卒業しろ。いずれ俺に感謝する時がくる」-テニスだけが人生ではない。部生活は大きな財産となった。※

 

昭和50年卒・山崎通也

卒業して36年。同志社大学軟式庭球部に4年間お世話になり、当時最高の指導者、仲村要先生を頭に山本毅コーチ他諸先輩の指導を受けた事が走馬灯のごとく蘇ってきます。我々に何を伝え、何を求めておられたのか、ようやくこの歳になって解ってきたように思える今日この頃です。

 

昭和51年卒・谷口正則

“がんばる”というフレーズが大好物で、熱くなった時の爆発力に些かの自身を持ち、昂ぶったプレーをベストプレーだと思っていた私に、“タイム”-顎に手をそえ天を仰いで“がんばるな”・・・“え”?!困惑、動揺、混乱の試練。卒業後、酒の肴に“タイムの是非”。学生時代には気が付かなかった・・・残念。以来、今も熱く自分をかき立てるも、自ら“タイム”をかけ、日々頑張っています。ブラボー 仲村要監督 ブラボー 同志社!

 

昭和51年卒・徳山和男

先日30数年ぶりに道後温泉を訪れました。当時は行き帰りにゼイゼイあがきながら走った松山城から道後温泉までの距離も、車でのせいか思いの外近くに感じられて、あっけないような、そうでないような妙に複雑な感慨を抱きました。別の日には岩倉の宝食堂にも寄ってみました。メニューからビーフワンは無くなっていましたが肉丼は同じ内容らしく、それを食べました。当時のようにコーラ1リットルを飲むような愚行はしておりません。※

昭和51年卒・一坪隆紀

入部後に伝統の重さを実感した一方で酒、煙草、麻雀も瞬く間に習得した。体も壊した。伝統を引き継ぐ喜びと苦さも学んだ。叱咤や激励に反発し、素直になれなかった。真の喜びは〝絶対不可能〟を実現した時だとある先輩に言われた。現役諸君、貴方にとって真の喜びとは?伝統とは?ぜひ自問自答してほしい。師と仰ぐ方々。苦楽を共にした無二の友。最大の宝物は妻(同女大)との出会いだった。同志社大学ソフトテニス部に栄光あれ!!※

 

昭和51年卒・北川譲次

4年間、渡辺先生、岡野先生、仲村先生はじめ、多くの諸先輩方にお世話になりました。特に仲村先生には公私に渡り面倒を見ていただきました。あらためて沢山の先輩方,後輩方に感謝いたします。辛いこともありましたが、皆様のお陰で4年間無事続けられた事で沢山の楽しい思い出を頂き、また大きな自信となりました。生涯の友達も沢山できました。この絆を今後とも大切にしてこれからも現役のために少しでもお役に立つよう頑張ります。

 

昭和52年卒・松本利晴

2年になる早々「引っ越すぞ」との松村聡先輩の一言で岩倉コート近くの川崎マンションへ。卒業まで下宿しました。先輩の吉川治行さん、堀さん、弓田さんがおられました。あっという間にテニス中心の生活環境が出来上がりました。多くの先輩・後輩が出入りして合宿所のような時もありました。岩倉で多くの事を学び、多くの思い出を作る事が出来ました。特にお世話になった1学年上の諸先輩方にこの場を借りてお礼申し上げます。※

 

昭和52年卒・樋上誠

大学の軟式庭球部に入部し技術の差を感じながら参加した松山の合宿。フェリー船上で

カレッジソング歌唱練習、レシーブを返せず松山城へ、練習後のクリームパンの美味。鞍馬寺山門~頂上の蛙跳び、御所~三千院の長距離走、加藤選手と組んだ西日本学生優勝、4年次岡山合宿での食中毒、コーチとして現役と関わった12年間・・・。様々な思い出が蘇る。この部が真の同志社人を育てる素晴らしい場所だと多くの人に伝えていきたい。※

 

昭和52年卒・多田拓也

同志社と聞くと心が湧く。軟式庭球部(ソフトテニスという呼称は嫌い)と続くや心は萌え立つ。主務として仲村先生と山本監督宅をよく訪ねた。仲村先生ご一家が旅行で1年下の藤原君と愛犬の散歩係兼留守番を命じられた。下から「マ・ミ・ム」の3姉妹に愛犬取り扱い特訓を受けた。冷蔵庫を空っぽにして報復した。山本家で説教後に奥様の言葉で慰められた。「素晴らしき人達との出会いと想い出」。私の同志社大学軟式庭球部です。※

 

昭和52年卒・野田(旧姓加藤)英明

80周年おめでとうございます。本当に多くの想い出が思い起こされます。初めて岩倉のコートで見た先輩方のプレーに「こんな上手い前衛がいるのか」という驚きと喜び、松山での春合宿、初めての明石でのリーグ戦、1年次生での西日本学生・インカレの団体戦のほろ苦いデビュー、松村さんと組んだ関西インドア2連覇、同級生の樋上君との西日本学生優勝、金井君との西日本一般3位、その時代の全ての事が今の私の財産となっています。

 

昭和53年卒・木村一伸

初めに仲村要総監督、山本毅監督には当時貴重なご家族との時間を割いてご指導を頂き、感謝致しております。現役時代を振り返りますと、期待をかけて下さった先輩の思いに応えられなかった事。上級生として後輩をリードできなかった事など悔しい思いで一杯です。しかしそれ以上に良かった事は同期のメンバーに恵まれた事です。最近みんなとも集まる事も多く、当時の苦しかった話など今では楽しく語り合っております。

 

昭和53年卒・碓井暁

卒業して早30年以上が過ぎた。際立った戦績もなく入部した我々に仲村要総監督が「お前らは同志社始まって以来、最弱の学年や」とよく言われた。同期10名が4年間続けられたのは奇跡に近い。歯に衣着せぬ仲村先生の言葉は時に残酷、時に生きる力を与えてもらった。赤鬼こと山本毅監督は試合中「強気や!前向きや!」しか言わない。社会人になってからも常に「強気・前向き」とつぶやきながら生きてきた。皆々様方に感謝したい。※

 

昭和53年卒・藤原隆

北海道の田舎者は、岩倉コートで5月に日焼けで皮がむけた。それ以降ツラの皮が厚くなった。ヘタクソばかりの同期10人は、不思議にも4年間欠けることがなかった。心残りなのは、仲村要総監督が「どや、へたくそな4回生だけでリーグ戦ってみんか!」というお言葉に「やります!」と答えるだけの心づもりも勇気もなかったこと。発想を豊かにすること、時には勇気を持って一点突破することなどの全ては、同志社軟庭で学んだ。

 

昭和53年卒・赤川裕一

高校時代、戦績もなく全く無名で、大学の体育会がどういうものかも知らないで、ただソフトテニスがしたいというだけで入部した。田舎者が突然都会に出て来たような感じで、同期の皆に入部当初から迷惑を掛けっ放しだった。最終的には皆に助けてもらいながらではあるが自分なりになんとか成績も残せたと思う。私のような無名の選手を受け入れてくれるのが同志社大学だと思う。同志社大学ソフトテニス部に入って本当に良かったと思う。

 

昭和53年卒・牧野肇

いつもムードメーカーだった。1部リーグ宿泊先の消灯前、現千葉県知事のモノマネをよくやった。仲村要総監督に「お前はピエロだ」とよく言われた。「遊び」も同期では一番だった。岩倉の練習後、愛車のシルビアで比叡山越えをし、○○温泉で一晩過ごしたり、冬の御所の筋トレ後には競馬場にも行った。山本毅監督から「いい加減にしろ」とよく叱られた。今では一切足を洗った。同志社での4年間はわが人生で最高のタームである。※

 

昭和53年卒・吉田能之

私たち昭和53年卒業組は、史上最弱の学年といわれ、戦績はこれといって残せていないと思いますが、ただひとつ誇れることは、入部した10人全員で卒業出来たことです。追いコンの時、そのことをずっと言い続けておられた当時の山本毅監督に褒められたかどうかは記憶にありませんが。

 

昭和53年卒・前田好二郎

リーグ戦での出来事。私たち4年生が出場しないオーダーを見て、山本毅監督からのキツイ一言。「情けない。負けてもええから自分が出場して戦う気持ちがないのか!入れ替え戦が怖いのか!」-出ないで後悔するより、出て後悔したかった。自分たちでオーダーが組めるようになっても、最後までムチャが出来ない史上最弱の学年でした。
昭和54年卒・西宮正義

市バス5番で岩倉コートに通う毎日毎日。憧れの同志社大学は、自己努力がなければ這い上れない場所なのに前後の学年とコート外でよく遊んだしお酒も飲んだな。仲村要先生からテニスを教わった記憶がない。先生は、自分にとり人生の師匠として『同志社や!』胸を張れと教授下さった。故郷は庭球部やいつでも待っている、困った時には帰ってこいと口癖だった。その内、自分も【どんぐりころころ~】を一緒に奏でる日が来るんだろうな。

 

昭和54年卒・河原田明

昭和53年度はキャプテンの西宮を中心に澤田、森川、鶴岡、浜、木村、守田、河原田の8名がインカレ団体優勝を目指した。インカレは優勝できませんでしたが、関西学生1部リーグ戦で優勝し、六大学王座決定戦は4年連続で優勝することができました。卒業後は、同級生が毎年8月に集まっています。昨年は私の孫も参加しました。結束が強く、30年以上も前のことを昨日のことのように話せる同級生は、私の財産です。

 

昭和54年卒・森川光正

卒業して早30年。思えば高校時代にさして戦績の無かった私にとって岩倉のコートでみる先輩たちは雲の上の存在に見えたものです。ついていけるかどうか不安の内にスタートし、常に日本一を目指す姿勢の中で4年があっという間に過ぎてしまいした。でもそれは井の中の蛙にすぎなかった私に大きな世界を教えてくれた貴重な4年間です。そしてそこで得た同期7人は今も毎夏思い出を肴に酒を酌み交わす仲間であると同時に私の財産です。

 

昭和54年卒・澤田猛

4年次生の春季リーグ戦。メンバーは揃っているのに、しばらく優勝から遠去かっていました。同志社は早々と4勝1敗となり、天理大対大商大の結果待ちでした。天理大が2試合先勝して王手をかけました。しかし、その後大商大が逆転で3試合を取りました。4勝1敗で3チームが並び、対戦成績で同志社が優勝!西宮主将以下部員全員、久し振りの優勝に歓喜しました。このことが大学4年間での一番の思い出です。

 

昭和54年卒・木村記代信

軟式庭球部の思い出は、30年以上も前のことなので、遠い記憶になっています。暑い中、寒い中、練習したり、ランニングしたりしていたことを思い出します。今、振り返ってみると、あまり研究せず、惰性で反復練習していたように思えますし、テニスの試合なのだから、もっと楽しんでやればよかったのにと思えます。テニス部に4年間所属し、一番良かったことは、今でもたまに同期会で当時の友達に会えることでしょうか。

 

昭和55年卒・渡辺豊

卒業後約30年。日々何を思考し、どう推進するか、どこで辛抱するか等を理屈ではなくバランスとして4年間で享受させて頂いた。仲村要先生の「上手な奴が何となく勝つのは面白うない」「結局は勝たんでもええんや」等の言葉は前者がプロセス重視、正しい努力による向上。後者が人生如何に生きるかの問いかけだと確信している。山本毅監督の「前向き・強気」は社会生活の基本動作に通じる。創部80年。部の更なる躍進を祈念します。※

 

昭和55年卒・金井豊

1年間の浪人生活のあと、やっとの思いで合格し「これで思う存分ソフトテニスができる!」と毎日毎日練習に打ち込んだ日々が懐かしく感じられます。御所から三千院への往復マラソンや2時間半続いた一人スマッシュ練習も懐かしく、よき仲間に出会えたことは大きな財産として残っています。ありがとう!

 

昭和55年卒・中村謙

「このブラシなおしといてや」???このブラシのどこが壊れているのだろうか?しみじみと見ていると「はよ、せんかい!!」と怒鳴られた。「ほかしとけ」-何故にゴミをそのままにしとくのか?まだ関西弁がテレビで馴染みでなかった頃に異文化交流の最前線にいた私。下宿に帰れば大阪・姫路・広島・呉・京都等多言語に振り回された教訓を後輩に伝授し、7人も異文化交流選手が誕生。なんで同志社に行った?今も説明し続けています。

 

昭和55年卒・大塚喜彦

昭和51年4月に入学した同期は11名。1年生の春の1部リーグにその中の5名がレギュラーで出場するという期待された学年でした。しかし、4年間の成績はあまりパッとしないものでした。今思えば、京都の中だけで練習し、強い相手とは試合で初めてあたるという状況が最大の原因だったと思います。とはいえ、社会に出て行く前の4年間、大学生活において最も多くのことを学んだのはテニスコートだったと思います。

 

昭和56年卒・飯田和人

練習で疲れ下宿のマイルーム(四畳半)で爆睡していた夜中2時頃。「飯田、起きろー!!」先輩方の大声とガーッと響く大きな音が聞こえます。「何事や!」と思い廊下に出ますと「レーシングカーが完成した。今からお前もおたび杯レース観戦せー」と破顔一笑の先輩諸氏。50を過ぎてからやっと「あれは親元から離れて初めて一人住まいする私への先輩方の愛情だ」と思えるようになりました。同志社ソフトテニス部OBであることを誇りに思います。

 

昭和56年卒・前田重男

同志社大学軟式庭球部の思い出(あえて軟式庭球部としています)-高校入学時も別世界の印象でしたが大学の時は周りに高校のスーパースターがごろごろしていたことから大きなショックを受けました。そんな中で今でも時々思い出して励まされる先輩の言葉があります。その先輩はいつも「とりあえず強気でいこう」の一言しか言わなかったのです。社会人になってからもこれを思い出して頑張っています。先輩ありがとうございます。※

 

昭和56年卒・玉岡良仁

80周年おめでとうございます。活動80年に驚きを感じています。4年間、卒業後も大変お世話になりありがとうございました。今は亡き渡辺敏一先生(当時部長)仲村要先生(同総監督)他ご存命の先輩諸氏(私も50歳を超えてしまった)に対して改めて御礼を述べたいと思います。活動を支えておられます内田吉治会長、西宮正義理事長はじめ関係の方々に心から敬意を表します。今後100年、150年と末永く続けていかれることを願います。

 

昭和56年卒・田中伸和

私もセレクションなるもので将来を期待されて入部した一人でありますが、入学当初から甘いキャンパスライフに溺れ、堕落の日々を送るあまり、気がつけば同級生、後輩に先を追い越され、自分の存在はありませんでした。そんな時、仲村総監督はじめ周りの方々から叱咤激励を受けました。「練習は嘘をつかない」を実感したのはこの時でした。いい指導者、いい仲間、いいペアに恵まれたと思っております。

 

昭和56年卒・岩井司

卒業し早30年!一生の思い出は未だかつて現在に至るまで多分有り得ないと思われる1年生が2週連続で試合に大遅刻した事です。若気の至り?か。朝まで加茂川河原でドンちゃん騒ぎ(田中、鈴鹿、小野)して1度目は鞍馬ランニング。2度目は丸坊主・・・。連帯責任で同学年の皆様には大変ご迷惑をお掛けいたしました!!ハハハ・・・。

 

昭和56年卒・鈴鹿誠

「現役の皆さんへ」-ソフトテニスは人生の全てとなりえることはないと思いますが、今過ごしている学生時代しか思い切りできないことかもしれません。人生に悔いを残さぬように思い切りテニスにのめり込みチャレンジしてください。きっと、将来、いい思い出が語れるようになると思います。良い時間、良い仲間、良い遣り甲斐、ともにつかみに行きましょう。一人一人が輝いている姿に乾杯!

 

昭和57年卒・津川正治

高校時代の先輩がおられたこともあり、同志社に来ることに迷いはなかったように思う。きょうとでの生活は、いろいろ遊びもしたが、でもやっぱり軟式テニス一色であった。友人も生活の中心もすべてテニスと切り離せない。もしテニスをしていなかったら・・・何もすることのなかった学生時代であったかもしれない。先日、娘とともに久しぶりに京都を訪ねた。私たちの時代とは姿を変えた京都であった。

 

昭和57年卒・宮崎裕史

「お前たちは同志社大学軟式庭球部の部員である。その前に同志社大学の学生である。しかし、その前に二十歳前後の若者であり、さらにその前にひとりの人間である」。物事の判断の基準を教えていただいた、故仲村要先生のお言葉、今でもしっかり残っています。思い返せば辛いこともたくさんありましたが、その分いろいろと考える機会にも恵まれた時期でした。たくさんのすばらしい方々との出会いに本当に感謝しております。

 

昭和57年卒・岡靖彦

日頃はご無沙汰しており申し訳ございません。卒業から早いもので28ねんが経ち、50歳となりました。約10年前に百貨店から保険業界に転職し、現在は銀行系保険代理店の大阪支店に勤務しております。80年もの輝かしい伝統を誇る同志社大学ソフトテニス部OB会の一員であることの幸せに感謝するとともに、今後少しでもOB会に貢献できるよう頑張りたいと思います。

 

昭和57年卒・吉本和広

仲村先生の関西インドア(1年次)でのアドバイス。「今のゲームで1本だけ悪いボールがあった。吉本分かるか」。私「?」。「ゲームカウント2オール、ボールカウント2オールのサイドパスアウトや。ポイントが欲しい気持ちに負けて、焦ってポイントを取りにいったやろ。思いっきりと無理は紙一重や」。その後、ゲームカウンント2オール、ボールカウント2オールになると必ずその場面の仲村先生との会話を思い出す。

 

昭和57年卒・畑直樹

入部当初。下級生は練習前にブラシをかけ、石灰を濾して如雨露に入れ、ロープを張ってラインを引いていました。岩倉の部室前で1年先輩の前田さんが如雨露蓋を渡して「石灰を濾しといてくれ」。如雨露蓋に石灰を入れて蛇口に持っていき、そのまま濾しました。戻った前田さんに蓋を見せました。「お前らが教えんか」と同期の連中が怒られていました。追いコンで石灰事件を披露してみんなに笑ってもらった事を懐かしく思い出しました。※

 

昭和57年卒・乙木孝美

入部していきなり歌の練習をしたのが良い思い出です。CollegeSong、DoshishaHeroes、大学歌、戦いの野に、若草萌えて、不断の楽、逍遥歌、同志社ワルツ等、今でも覚えています。春の岡山での合宿の際、練習場から宿舎までの商店街を歌いながら歩いた時、名門の同志社大学軟式テニス部に入部した事を実感したものです。-高らかに叫べ 誇りの歴史(「若草萌えて」より)

 

昭和58年卒・吉田尚弘

岩倉の地で「しかも・なお・あえて」という中村要総監督のお言葉や、「とことんやれよ!とことん!とことんやって、あかんかったらしゃーない」という山本毅監督の激を耳にしながらも、実践出来なかった4年間。社会に出て初めてその重みがわかり、苦しい時や勝負の時に声に出して自分に言い聞かせて来ました。そしてこれからもこの教えに勇気を貰い、また後進にも語り続けて参ります。

 

昭和58年卒・牧野憲一

駄目かと思って見つけた受験番号。心躍ったあの春。身の程知らずの実力差とも知らずに入った軟庭部。ランニングすらついていけない体力差で底辺の1年目。レシーブが返らなくてやはり応援の2年目。チャンス到来の3年目。大敵を倒して臨んだ西日本団体決勝で足元をすくわれ、宿敵に3組回され散った最後の夏。あっという間だった。山本毅監督に「あきらめない心」、仲村要総監督に「人間力」。全てが私の根っこ。そして全てに感謝。

 

昭和58年卒・丸茂隆

京都を離れ、はや、四半世紀が過ぎてしまいました。心の中では岩倉のコート、タカラのビーフワン、じゅんさい鍋、無法松などなど、思い出せば限りなく、あの頃の泣き笑いの数々が蘇ってきます。渡辺敏一先生、仲村要先生が逝ってしまわれ、時の過ぎ行く現実の寂しさを実感していますが、わが部のますますの繁栄によってこんな思いを共有できる仲間がもっと増えていくことを祈るばかりです。

 

昭和58年卒・吉良邦人

私の現役時代(昭和54~57年度)のチームは関西リーグでは常勝、あと少しで全日本も制覇という強さでしたが、自身には不甲斐ない気持ちの4年間でした。しかし、諸兄たちと岩倉で共に過ごした時期が楽しかったと懐かしく想い、また現在の私の職はそのご縁によるものです。後輩たちの活躍は、慌ただしい日々の中で疲れた心に活力を与えてくれます。同大ソフトテニス部の更なる躍進を祈念いたします。

 

昭和58年卒・池ノ内寛治

卒業式を終え、すぐ岩倉へ。下宿は、主務から自宅に電話があり、下見もせずに即決した。(風呂は3日に1度)引越し荷物の到着とともに下宿前で練習帰りの先輩方に遭遇?訳も分からず、まずはおたび荘、安原荘へ挨拶まわり。足を痛めた1年次合宿、西・全日本・・・記憶は順を追っていつでも蘇る。現役時代から現在に至るまで同志社と深く関わることができた。私が女子大監督時代の仲村先生との珍道中(西・全日本)も今なお鮮明である。

 

昭和59年卒・桑本廣志

ひょっこりと渡辺敏一先生が自転車でコートに来られる。乱打をさせて頂くが同じ所にゆっくりと返球せねばならない。今思えば良い練習だった。水割りの氷を取るのも大変だったけど。仲村要先生は明け方の4時前に「おぅワシや!何しとる」とお茶目な悪戯電話を何度かされた。関西学生で岡田・藤田に勝って3位になった時、「同志社の優勝を阻止した」と叱られたが、温かいくちぶりになぜかほっとした。「キャーさん、お二人を任せたよ」

 

昭和59年卒・永井工仁

感謝!各界の同志社OBや後輩の活躍に元気をもらい、背中を押してもらっている。金井先輩の下宿、京都御所から始まった大学生活の教え。「部員である前に同志社の学生、同志社の学生である前に一青年であれ」「勝利の女神には尻尾がある」「どんぐりころころ」等が忘れられない。知命を迎える吾身であるが、学生への慈愛にあふれ、繊細で天真爛漫な仲村要監督にいただいた言葉「朗」を銘とし、同志社の良心の導く処へ進んでいきたい。

 

昭和59年卒・藤田義雄

同志社大学で学んだ4年間は、これからも何物にも変える事が出来ない宝物です。

ありがとう。仲村要先生。ありがとう同志社大学。

 

昭和59年卒・砂原宗幸

共同炊事、共同風呂、共同便所、共同洗濯機、押入れ付き四畳半。家賃13000円。共益費2000円の「おたび荘」。最寄りの駅は「八幡前」。「宝」「幸」「さくら」といった飲食店、今にして想えばいい名前だ。比叡山山頂までのダッシュ、鞍馬へのランニング、宝が池の周回ランニング。炎天下、岩倉コート水道蛇口からの吸飲。仲間とともに岩倉で過ごした4年間の情景は今もしっかりと私の脳裏に記録されている。

 

昭和59年卒・村内卓司

大切な4年間でした。仲人の仲村要先生や諸先輩、後輩たちと出会った。入学時に玉岡先輩のストロークに感動した。同期の藤田君が試合会場で先輩と喧嘩して止めた。桑本君の実家で麻雀大会。同じ下宿の岩井先輩の優しさと我儘。靭帯を痛めた時に助けてくれた稲田君。麻雀好きの中上君、デート中の部屋に侵入してごめんなさい。どれも昨日の事のようです。残念ながら1名が亡くなり同期9名。今後も大事にしていきたい仲間です。※

 

昭和60年卒・稲田肇

あの頃。朝は『ダックス』、昼は『幸』でオムライス。夜は『山城飯店』か『ロシナンテ』、懐具合で『じゅんさい』とか。今でもふとした瞬間に溢れ出る記憶の数々。ゲーム中、ありったけの集中力で決断した場面、風景、声、温度まで伝えるかのようなモノクロがかってはいるが高画質の画像群。いろんな事を忘れていく毎日の中で、あの濃密な4年間の記憶は今なお心を動かす。だから現在を生きる為、今はなるべく見ないようにしている。

 

昭和60年卒・中上敏也

同志社大学軟式庭球部を卒業して25年が経ちます。早いもので現在私どもの子供が大学生(同志社)になりました。昭和56年に初めて岩倉に下宿したテニスの練習、マージャン、合コンなど(勉強はあまりしていませんでしたが・・・)先輩、後輩、同級生と一緒に暮らした4年間は何事にも変えられない貴重な人生経験でした。社会人になってテニスは殆どしていませんが、今もあの時の事は夢のような楽しい思い出となって心に残っています。

 

昭和60年卒・来馬典之

大学生活は、仲村要監督となぜかB型ばかりの集まりの軍団に囲まれ、本当に充実した4年間でした。そんなに楽しかったテニス漬けの生活も卒業してからは、すっかり遠ざかってしまいました。ところが不思議な縁で自分の子供が自分と同じようにソフトテニスを始めたことから、またまたこの世界に戻ってきました。子供のおかげでまた、昔の仲間や先輩など多くのお世話になった人たちとまた楽しい日々を送っています。

 

昭和60年卒・杉岡功一郎

長崎に帰り、20年が過ぎました。でも、あの頃の思い出は昨日の事のように目の前にあります。関西リーグ、西日本大学対抗の優勝といった思い出もあれば、鞍馬・実相院・宝ヶ池へのランニングもまた、良い?思い出です。しかし、一番の思い出は、岩倉の下宿で、頑固で、負けん気の強いメンバーと朝までガチンコでテニスの話をしたことでしょうか。

 

昭和60年卒・中嶋勝

公私にわたり支えてくださった仲村要監督。ライバルであると同時に、挫けそうな時に温かく支えてくれたかけがえのない同期8名。自由を尊重する先輩、後輩との関係。遅刻ランニング・部旗忘れ・安原下宿で大騒ぎ・鼾歯ぎしり等々、皆に迷惑ばかりかけた私ですが良き師、良き先輩、良き仲間と岩倉で過ごせたことすべてに感謝しています。同志社大学「軟式テニス」部「無法松」専攻であったことが私の何よりの誇りとなっています。

 

昭和60年卒・山田俊男

『岩倉』。この言葉を聞いただけで、あの頃の思い出が蘇ってきます。鞍馬・比叡山へのランニングや宝ヶ池・御所でのトレーニング。テニス漬けの毎日でしたが、仲村要先生をはじめとする周りの先輩や仲間と過ごした4年間は、言葉では言い表せないほどすばらしかった。今でも、同志社の先輩や仲間と会うとホッとするのは私だけでしょうか?47歳となった今、子供3人も始めたソフトテニスの試合の追っかけをしている日々です。

 

昭和60年卒・幸坂泰典

あまり良い部員でなかった私を支えてくれた同期のみんなに感謝しています。

 

昭和60年卒・宇津田浩

大胆にも、テニス初心者で伝統ある同志社の軟式庭球部の門をたたいた宇津田です。仲村先生からは『4年間で一番伸びた奴』とお褒めの言葉をいただきました。その言葉を胸に、現在、九州の南部で楽しく暮らしております。

 

昭和60年卒・田中一裕

昨年の夏、20数年ぶりに岩倉の地を訪ねて、古き良き時代を懐かしく思い出した。麻雀・パチンコ・酒・タバコとテニス以外にも多くを学び、勝負の厳しさだけでなく、社会人としての下地を築くことが出来たのではないかと振り返る。これも、同期の仲間が居てくれたからこそと素直に感謝している。会社では多数の部下を引きつれつつも思うように成果を出せず、もがき苦しんでいる今日この頃である。

 

昭和61年卒・寺田賢

4年間の思い出。少し思い返すだけでも原稿にはとても収まらないくらい浮かんでくる。2年のインカレ2回戦。相手は日体大の石岡・垣崎組。その年の優勝候補にファイナル3-0でリード!もう勝ったと思ったのが運の尽き。そこから逆転負け。今でもあの時なんで、と思い出す。3年秋の京都学生で優勝した時、初めて要先生に「やっと大学生のテニスができるようになったのー」と褒めていただいた。要先生のご冥福をお祈りいたします。

 

昭和61年卒・椎名衛

この4年間ほど熱く、夢中になり、そして楽しかった時間はないでしょう。友情、恋愛、勝負、組織、上下関係など人生の縮図そのものを経験したと感じています。団体こそ勝てませんでしたが個人は西日本3位、インカレ16とセレの最下位入部のわりには上出来だと思っています。現在は食品メーカーのミツカンで頑張っています。同志社大学ソフトテニス部で鍛えた4年間を大きな財産としてこれからも成長し続けていきたいと思っています。

 

昭和61年卒・大西聡

戦績は低迷していましたが、岩倉の地で同じ釜の飯を食った仲間との関係は特別なものと思っています。仲村先生には出来の悪い年次で叱られてばかりでしたが、先生の「試合に負けたからといって命をとられる訳やないんやから、思い切り精一杯やれ!」という言葉が今でも胸に焼き付いています。伝統と歴史のあるクラブで戦績が振るわないことは、プレッシャーでしたが、そんな我々も歴史の一部であることを認識させていただきました。

 

昭和61年卒・藤野聡

2年次生から体育会本部役員を務めた。試合どころか練習もろくに出来なかった。それが翌年夏の石川県宇出津の大会に「出ろ」のお達し。当日早朝に会場へ向かったが間に合わずに不戦敗。相方の増井君、本当にごめんなさい。以降試合らしい試合に出場した記憶がない。戦績の思い出は何一つなく、笑い話しか残っていない。しかし素晴らしい指導者、先輩、後輩、仲間に恵まれ、体育会本部役員として活動出来たことに感謝している。※

 

昭和63年卒・古谷学

私にとって仲村要先生は父で、師匠で、先輩で、友人でもあった。多くの教えを受けたが何一つ分かっておらず、幾度となく叱責された。反発心の人一倍強い私が「とにかく受け入れ、聴こう」と決心した。だが遅い!遅かったのである!先生の言葉通り「神様は前髪しかなかった」。今はただ、悔いを背負いて生きるのみである。「叱られて~叱られて~」「馬鹿は死ななきゃ~治らない」。先生の歌声が響く。今夜も先生が父を飲みに誘っている。

 

平成元年卒・古谷(小川)久美

私は、創部以来、初めての女子マネージャーとして所属した。酷い先輩にいじめられる中、優しく接していただいた先生。そしてその酷い先輩に今もいじめられながらも、今の私があるのは同志社大学軟式庭球部と仲村要先生のおかげである。

ありがとうございました。謹んで神に祈ります。

 

平成2年卒・土橋直樹

あぁ、思い出す・・・「岩倉コート」「部旗」「救急箱」「戦いの野に」「遅刻は坊主」「四条河原町阪急集合」「ガランガのカレー」「天一」「餃子の王将」「グラナダ」「オリンピア「興戸」「松山合宿のパン」「どんぐりころころ」「ゴーセン」「冷コ」「鶴清「千成ビル「祇園でバイト「丹波橋の床屋」「ケンタッキーフライドチキン奈良駅前店」-社会人になっても「ファイト、ファイトー!」

 

平成2年卒・塚田邦人

忘れられない仲村要先生の一言がある。最後の西日本の前。森下直明監督から突然呼び出され「監督を辞める」と。急遽、仲村先生がベンチに入られた。結果はベスト8どまり。その晩、仲村先生に言われた。「なぜ森下を引き止めなかったんや」。あの険しかった顔と、どんぐりころころを陽気に歌われる姿が記憶に残っている。あれから早20年。仲村先生と懐かしむことはできないが、森下監督とはあの時の真実を酒を飲みながら話したいものだ。

 

平成2年卒・野本万博

「友愛を以って一期一会を為す」と学んだ。

 

平成2年卒・井ノ上隆之

「広壮豪宕(こうそうごうとう)」

 

平成2年卒・井戸正

同志社大学ソフトテニス部は私にとってこころの故郷です。とくに一緒の時間を過ごした仲間、先輩、後輩は一生の宝物です。

 

平成3年卒・森下薫

当時の思い出は、自分が幼くて、迷惑かけた事ばかり。女子マネージャーとして、役に立っていたのか、邪魔していたのか、不明です。その中で、一番印象に残っているのは、4年次生の時に明治大学との六大学王座決定戦に勝って要先生をみんなで胴上げした事。

先生がとても喜んでくださったのを覚えています。また、正装を詰め襟からブレザーに変更するのをお手伝いしました。今も着ていただいているのでしょうか?懐かしいです。

 

平成3年卒・浜田英明

千葉県白子町で行われた4年次生のインカレ団体戦での順天堂大戦。16本取りで1次戦の結果は1-2の劣勢だった。残り2対戦をペアの廣渡君と真っ暗闇の中で戦い、勝利したのが今でも記憶に残っている。最後の最後に出場した全日本学生選抜インドアで北本(明治大)小牧(天理大)ペアら強豪揃いの予選リーグを奇跡的に勝ち抜きました。あの3位入賞はソフトテニスと真面目に向き合った4年間に対する神様のご褒美だと思っています。

 

平成3年卒・廣渡敦司

不惑の歳。振り返ると、同志社での4年間はとても眩しい時間です。戦績は氷河期でしたが、仲間と過ごした時間はほんのり温かく、今でも自分の中で確かな「帰る場所」です。あの濃厚な時間は二度と過ごすことが出来ないと思いますが、伝統というものに形を変えて紡がれていくのだと思います。そしてまた、これからの私の人生においても私の誇りとして生き続けると思います。

 

平成3年卒・鳥屋雄三

※長い伝統の中で4年間を過ごせたことは本当に幸せでした。思い起こせば様々な人生経験をさせてもらいました。仲村要先生はじめOB諸氏との会話や高橋寛監督との熱いテニス談義。同期との部活運営に関する何時間にも渡る議論など全てが貴重な体験だったと感じています。我々の時代は良い戦績を残せませんでしたが後輩たちの大活躍を聞くにつけ「頑張れ!頑張れ!」と応援しています。我がソフトテニス部が永遠に続きますように。

 

平成4年卒・三上忠

4年春の関西学生1部リーグ戦。自身初の、且つ在学中唯一の出場。相手は当時最強の天理大。自滅の惨敗だった。当時の監督からは「ファール&ゴロ打ち」。これがチームの雰囲気を最悪にしリーグ戦も惨敗した。直ぐにも思い出すのはこの1試合しかない。現在も大きなトラウマになっているが、同時に大きな大きな糧ともなっている。最近懲りずにメタボ対策も兼ね、近所のソフトテニスクラブで汗を流し始めた。なかなか楽しいもんだ。

 

平成4年卒・嶋田尚登

テニス一筋(テニス馬鹿という説もある)だった自分が4年間で一人前の社会人としてスタートすることが出来たのは同志社に入学し、現ソフトテニス部に在籍し、先輩方、同僚、後輩に恵まれたからと感謝しています。

 

平成5年卒・氷上幸治

京都に住んでいながら卒業以来京田辺コートに顔を出せておりません。40歳を迎える今もクラブチームで歳が倍以上も違うメンバーに混じってテニスを続けています。秋には日本一を目指して全日本クラブチーム選手権に出場しております。京都の試合で現役たちと当たることもあり先輩に遠慮することなく(先輩とは知られていませんが)伸び伸びプレーされて引退を考えさせられます。現役たちへ。悲願のインカレ団体制覇目指して頑張れ!

 

平成5年卒・日置順治

1992年 夏。 「海は広いなあ~」・・・九十久里浜の海岸にて。

1997年 夏。 「短気は損気!!」と数十回・・・結婚披露宴にて。

仲村要先生からいただいた、この2つの言葉を大切に、今も自分の人生に精一杯チャレンジしております。

 

平成5年卒・矢崎和彦

強い同志社の報を聞くたび、あの頃はと思い出します。2期続けて、入れ替え戦に出場しました。いずれも天秤の5番手。マッチポイントを何本取られたのか、分からないほど取られました。一度も2部落ちしていないのは同志社だけだとのプレッシャーも加わり、いい体験をさせていただきました。今はその体験を生かし、北海道で教会の牧師、幼稚園の園長をさせていただいております。遠くから同志社を応援しています。

 

平成5年卒・宮川琢次

一般で入ったにも関わらず高校の先輩・野本さんに声を掛けられ、3月頃から練習・合宿にフル参加。セレのみんなに交じり「ファイト、ファイト~」。その甲斐あってか1年で西日本の団体戦に出ることができ、いい思い出になりました。が、折角受験も終わって一休みの自由な時間を返して欲しいものです。1年の時が一番いい成績でしたが、有意義な学生生活を送る事ができました。これからも細く長くテニス頑張ります。

 

平成5年卒・小林英之

私の記憶が確かなら・・・今の現役諸兄は想像出来ないだろうが同志社は過去に4度も入れ替え戦を経験した。1部6位として。私は4度のうち2度出場した。しかも5番手を任された。相方は主務の矢崎。いずれも5番勝負でファイナルまでもつれた。2度目はトリプルマッチポイントまで握られた。同志社は全国で唯一1部に君臨し続けている。そんな伝統を私の代で絶やさなかった究極の5番勝負。リーグ戦で勝っておけば良かったんだ。

 

平成5年卒・佐藤正幸

現在、京都市役所ソフトテニス部の一員であり、京都市立塔南高等学校で勤務しています。また、西日本・近畿ソフトテニス連盟事務局で係員をさせていただいています。学生の時は夜にアルバイトをしていて練習に遅刻し、よく怒られました。度重なる入れ替え戦のため、オフを返上し、必死に練習していたのを思い出します。今後も後輩たちの活躍を応援しています。

 

平成5年卒・永田仁史

酔うといつも決まって「おい、永田!」と、いつの間にか歩み寄って握手を求めてこられた粋なカントク要先生。たった一言「お前は水臭いやっちゃ!」と当時の自分の心の中まで見透かされ、今では忘れられない言葉として胸に刻まれている。あの頃と比べてどれだけ成長したのだろう。いつか必ずどこかで要先生に「お前はええヤツや!」と認められたい。きっとオポチュニティーの神様となって見守っていただいているはずだから・・・

 

平成6年卒・森本英夫

卒業して15年。田辺校地近くに住まいを構え、現役たちの活躍を心から応援しています。私の頃は苦難の絶頂で4度の入れ替え戦を経験しました。今思えば“同志社”の伝統と誇りに支えられて当時の危機的状況を乗り越えられたと感じています。栄光と挫折はこれからの人生の中で必ず大きな財産になると思います。最後に天国の仲村要先生にお礼を申し上げます。先生から学び感じ取った多くの事を忘れずに明日への人生を突き進みたい。※

 

平成7年卒・大津竜二

後衛で入学して卒業時は前衛。2回生の秋に手首の怪我でテニスを辞めると言った時「テニスは前衛でも出来る」と祇園で夜が明けるまで飲ませてくれた仲村要先生。最後のインカレ前夜に「お前の好きにやれ」。準決勝で日大選手が痙攣した時「明日にしてやれ」。聞かずに続行して決勝で日体大に敗れた。「明日に-」の一言を聞いていれば・・・。卒業して15年経っても忘れません。今年こそインカレ団体優勝を-と毎年毎年願っています。※

 

平成9年卒・早苗康洋

同志社大学ソフトテニス部で過ごした4年間の全てに『感謝』致します。

 

平成9年卒・野智樹

私にとって、京田辺キャンパスのテニスコートで過ごした4年間の想い出は何物にも代え難い一生の宝物です。仲間と過ごしたすべての出来事が今でも鮮明に蘇ります。これからも同志社大学ソフトテニス部のOBとして恥じぬ人間になりたいと、この文章を書きながら決意を新たにしている次第です。

 

平成9年卒・佐々木貴士

多くの先輩、後輩、そして同期のメンバーと過ごせた同志社大学ソフトテニス部。一つの目標に向かい、喜びや悔しさを共にできたあの時間は私のとって一生の宝です。

 

平成10年卒・樋原拓勇

高校時代に大した戦績もないのに同志社大学ソフトテニス部に入部することができ、これからどうなるのだろう?続けていけるのか?勝てるのか?など心配ばかりしていました。それから卒業して、テニス部にどれだけ貢献できたか分かりませんが、私ながら4年間頑張り抜くことができました。これも素晴らしい先輩、後輩に巡り会えたからです。本当にありがとうございました。これからも同志社精神を忘れずに頑張っていきたいと思います。

 

平成11年卒・鎌倉光成

私の年代は要先生が元気に試合会場にこられた最後の年だと思います。入学し最初のリーグ戦の夜、要先生に起こされ、どんぐりころころを一緒に歌った(歌わされた)のが懐かしい思い出です。西宮監督には熱意ある指導をしていただき、吉岡先生には授業で大変お世話になりました。また、すばらしい先輩方、良き同僚、後輩たちにも恵まれ、楽しく、充実した4年間だったと思います。皆様に感謝!感謝!です。

 

平成12年卒・坂口大

4年間喋りすぎて、いささか疲れた時もありましたが、いいメンバーに恵まれて、素晴らしい環境の下でテニスに打ち込めたことが自分の財産になっていますし、監督・OBの方々には感謝しています。そして何よりもいつか後輩たちがインカレ団体で優勝することを願っています。

 

平成12年卒・松井厚樹

中学時代から続けてきたソフトテニスから離れて早10年が経過しました。思い返せば私のソフトテニス人生は「苦しい」だとか「悔しい」というマイナスな思い出しかありませんでした。しかし、大学時代にすばらしい仲間、先輩、後輩、OBの方などに出会い、初めてソフトテニスが楽しいと思い、続けてきて良かったと心から実感できました。今後も後輩たちを陰ながら応援していきたいと思います。

 

平成12年卒・山下典彦

西宮監督(当時)をはじめ、みなさんに「いいもん持ってるなあ」と言われ続け、あっという間の4年間。結局「いいもん持ってるんやけどなあ」で終了。なんだかなあ~

 

平成12年卒・木田琢仁

同志社大学体育会ソフトテニス部での仲間と経験は、何事にも代えがたいものです。これからも、ここで出会った仲間を大事に、経験を活かしていこうと思っています。

 

平成12年卒・奥山拓巳

入学以来、仲村要先生にはいつも「お前は本当に運の付いている奴や」と最高の褒め言葉を頂きました。また、大きな大会の前日には毎回、仲村先生の部屋で「前夜祭」をして頂きながらも、団体戦で優勝できなかったことが、学生時代での唯一の心残りとなりました。あの頃のチャンピオンもいまや運ではなく、脂肪が付いてしまった体を絞るのに精いっぱいです。

 

平成12年卒・石川貴大

「石川、今から実況中継せい!」4年次生の夏。インカレ個人決勝。拙い語彙力で必死に伝えた。35年ぶりの歓喜に、受話器ごしの仲村要総監督の声も震えていた。伝統の継承。35年は継続と進化の歴史。花田・奥山組がそれを証明した瞬間を見届けられただけでも幸せだった。あれから10年。京都駅に降り立てば、いまだ胸が高鳴る。同志社で良かった、と心から思う。

 

平成13年卒・国貞(原)麻美子

男前の先輩のさわやかな笑顔にまんまとひっかかり、軽い気持ちでマネージャーとして入部した私。やってみるとなかなか大変で、女子にはあるまじき日焼けを繰り返し、普通の大学生が満喫するような自由な時間は制限された。しかし、人が羨むほど先輩後輩問わず、いじられ続け、飲み会では“レギュラー”の座を勝ち取り、一生ものの友人を得た。今では宝物。

 

平成14年卒・橋本務

クラブ活動で得たものは同期メンバーの存在です。今でも年に一回は連絡を取り合っています。テニスの試合のことは忘れてしまっていることが多いけれども、チームメイトとの思い出はやっぱり心に残っています。また、あの頃に戻って思いっ切りテニスをしたいと思える4年間でした。

 

平成14年卒・清船良介

学生時代の思い出は、寝坊して坊主頭にしたことと、関六で福井さんと組んでレシーブが1本も入らなかったのに勝利できたことです。テニスも常識をやぶったあの時の福井さんは神でした。今でも同期で集まっては、この話題で酒を飲んでます。

 

平成14年卒・松本剛直

卒業して早くも10年近く経ちました。自分を取り巻く環境は目まぐるしく変化していきました。その中で体育会ソフトテニス部に在籍した4年間は人生の中で大切な思い出となり、糧となっております。これからの人生において様々な困難が待ち受けていると思いますが、一つのことに向かって熱く走った思い出と仲間を胸に邁進してまいりたいと思っております。

 

平成14年卒・高橋道長

「5本マッチをまくられるなんて、ありえへん」。毎年同期が集まるたびに同じ話題で盛り上がる。よく飽きないものだと思うが、並ぶ顔は肉付きがよくなっていたり、父親になっていたりと、一応、前に進んでいるような気になれるからうれしかったりする。体形も発想も現役から遠去かるのが怖くもあるが、変わらない話題や弁解で笑える道連れがいれば悪くない気もしてきた。

 

平成14年卒・石橋俊幸

後悔したプレーがいっぱいあるからこそ、少し有名な自分。その中でも西日本団体決勝で5本マッチポイントを逃がした。務に物申す。なぜ一人でプレーしなかったのか?永遠の謎です。一緒にテニスを通して時間を共にした先輩、後輩に感謝!そしてそれぞれが自分勝手やけど、毎年正月に集まる同輩は自慢!

 

平成14年卒・大西洋人

これと言って、覚えていることはないが、確実に言えることは、自分の人生の土台が創られたことと、一生付き合える仲間ができたこと。これは何事にも変えることが出来ない。今、時間を取り戻せるなら、あの頃に戻りたいと思う。素敵な4年間でした。

 

平成14年卒・梅原大輔

出会い、苦しみ、そして感動があったからこそ、思い出というより、人という財産ができたのだと思います。4年間で無理、無茶、無駄をやり切れたかというと?ではありますが、かけがえのない関係ができたことは間違いありません。

 

平成14年卒・桐村幸寿

一体感のない今日この頃。あの頃というともうかなり昔のような気がします。戦績はさておき、思い出というとやはり3回の時の春リーグです。内容はいつもの飲み会の通り。務と直弥には悪いけど、「三人一殺」です。役割分担?の徹底と各々それができたことの一体感はそう味わえるものではありません。そう、あたかも天理に勝ったような。また仕事に於いてもいつか味わえたらと思っています。

 

平成15年卒・柿本康年

あの忘れられない4年間。強烈な先輩・後輩ばかり。またあのメンバーでテニスができればなあ。テニスコートで学んだ事、出会った仲間は今も私の一番の財産です。

 

平成15年卒・花田直弥

4年間、インカレ大学対抗で優勝出来ませんでした。悔しさは今でも覚えていますし、その分後輩たちに頑張ってほしいと強く願っています。毎年8月には嬉しい結果報告を期待していますがなかなか叶いません。来年は是非ともインカレ優勝してほしいと思います。卒業後も京都に在住し同志社大学で練習させていただいたり試合に顔を出しています。後輩たちの元気な姿を見ていると元気が湧いてきます。これからもよろしくお願いします。

 

平成16年卒・東晃平

高校時代に全国大会の経験の無かった私は、同志社のレベルに驚愕しました。しかし、仲間からの激励、ハウスへの激怒を経て、インカレ出場・近畿選手権入賞ができました。自称・不動の応援団長を務めさせて頂き、インカレ団体3位に貢献したと自負しております。周囲の皆様に支えられ、同志社でテニスができた事を本当に幸せに思います。現在も神戸のチームでテニスを続けていますので、会場で会った際は皆様宜しくお願い致します。

 

平成16年卒・鈴木勇人

同志社大学ソフトテニス部創部80周年おめでとうございます。私が卒業して早6年が過ぎようとしています。大学生活を同志社大学で過ごせたことを今でも誇りに思います。全日本大学対抗選手権3位入賞や秋リーグ優勝等たくさんの仲間といい思い出を作ることができました。在校生は非常に優秀な人材が揃っていると伺っています。あまり気張りすぎず、大学対抗選手権での優勝目指して頑張ってください。いいお便りを待っています。

 

平成16年卒・渡辺文雄

一球入魂

 

平成16年卒・増田稔

花田・奥山組に憧れて同志社を目指した浪人の夏から早10年。テニスと気合と無茶と酒を学び卒業したマスオも、今や一児の父となってしまいました。太助さんとの同棲や夜通し飲んだ京都が懐かしい今日この頃。転勤で関東在住となった今でもOB各位の人脈は大きな力。今は仕事を言い訳にプレーできていませんが、時期を見てまた牧野大先輩・関東の諸先輩方にご指導いただくためコートへ参上します。

 

平成16年卒・大西(旧姓村田)文

80周年おめでとうございます。中学・高校とプレーヤーとしてやってきたソフトテニスでしたが、どこかでやり残した感じがありました。同志社でマネージャーをさせていただき、みなさんの全力のプレーを見せてもらって、一緒に汗をかき、日に焼け、精一杯応援して、うれしくて泣き、悔しくて泣き、やっと自分がテニスをやってきて良かったと思うことが出来ました。

 

平成16年卒・大西憲祐

創部80周年おめでとうございます。リーグ戦・西日本・インカレ等今でも鮮明に記憶しています。同期生、ご指導頂いた皆様に、大変感謝しております。「日本一」の目標達成はできませんでしたが、本当にいい学生生活でした。現在は、ラケットよりも、ゴルフクラブを握る機会が多くなってしまいました。OBとして恥ずかしくないプレー(テニスも仕事もゴルフも)を!!頑張ります!!

 

平成18年卒・植田優生紀

娯楽に簡単に手が届く大学生活の中で、汗を流して練習し、試合の結果に一喜一憂する。スランプに落ち込み、ペアに悩む。選手の根底に流れる「ソフトテニスが好きだ!!」という気持ちが、そこまで一生懸命にさせるのだと知りました。現役の選手には、好きなことに打ち込める自由さを謳歌してほしいと思います。そしてマネージャーは、そんな選手を間近に見られる幸せを感じ続けてほしいと思います。80周年おめでとうございます。

 

平成18年卒・角井琢磨

※創設80周年という歴史あるクラブの一員であることを嬉しく思います。同期8人。幹部学年として独特の個性でチームを纏めた。1年目から全国を舞台に活躍する選手、応援団長として盛り上げてくれた選手、全員がやるべきことをこなし、後輩たちを引っ張りながら全国優勝目指した。目標はあと一歩で達成できなかったが4年間で学んだ経験が現在の仕事や今後の人生に活きると感じている。監督やコーチ、OBの方々に改めて感謝したい。

 

平成18年卒・藤木寛史

4年間を振り返って-戦った相手や成績とかはあまり覚えていないけれど、とにかくいろんな人に支えられてテニスをしていました。いつも声をかけてもらって、それが力になったり、頑張ることを当たり前にしていただいた。みんなOBさんのおかげです。今は現役をサポートできていないけれど、余裕ができれば支えてあげたいと思っています。

 

平成19年卒・富澤敏

青山学院大OBの父の後押しもあり同志社大学でソフトテニスをしたいと思い、埼玉県の親元を離れ入部しました。当時のソフトテニスマガジンを席巻していた先輩方のプレーを見て「わくわく感」と「」俺もやってやる」と決意したのを覚えています。京都で暮らす仲間それぞれの色が結合した最高の環境で4年間を過ごせた。教わった「自分の評価は他人が決める」は今も心の糧になっています。先輩方、仲間、後輩は私の一生の宝物です。

 

平成19年卒・上田敦

ただ、がむしゃらに走り回った4年間でした。気付けば終わっていたという感じです。1試合1試合その時は鮮明に覚えていても、今や断片的にしか思い出せません。その中でも記憶に残っているのは、4年次生の春リーグ、勝てば優勝という場面での天秤5番勝負。ペアの小川や那知上、富澤、田村、二ノ湯に感謝し、田中監督、池田コーチ、OBの方々、後輩たちにお礼を言いたいです。本当に楽しい4年間をありがとうございました。

 

平成19年卒・小川陽平

私が入学して最初のインカレ団体戦。ベスト4賭けの明治戦で那知上・松田ペアの3本まわしで3位に入賞した事が非常に記憶に残っています。個人的には4年次生で関西学生リーグ、関西学生選抜インドアで優勝できた事。上田君、世利君おおきに。

 

平成19年卒・二之湯郁子

3年次生の時からマネージャーとして部活に所属したことで、他では得難い経験ができました。OB、保護者の方々をはじめ、同期と後輩の協力を得ながら一つの事を成し遂げる。このなんとも表現できない連帯感と達成感は、今の私の人生にとって素晴らしい糧となっています。この場をお借りして、皆様に改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。

 

平成19年卒・那知上彰久

4年次に主将を務めさせていただきました。部長はじめ監督、コーチ、OB、先輩の皆様、それから後輩たちにも大変お世話になり感謝しています。同志社で学んだことは沢山ありますが、その中で一つ挙げるとしたら「自ら考える」ということです。クラブを通じて立派な社会人になるべく成長できました。このような環境を継続し、これからも社会で活躍できる人材を育てられるよう願っています。関係者の方々、80周年おめでとうございます。※

 

平成20年卒・最上明子

初めて試合を観た時の感動は今でもはっきり覚えています。コート中の空気を吸い込んで相手コートのライン上に乗ったあの球を見た瞬間、本当に胸が高鳴りました。そして4年後のインカレダブルスで宮下・花田が優勝しました。4年間、最初に描いた夢よりも遥かに素晴らしい経験を先輩や後輩、何より同期生のおかげですることができました。4年間の教えは言葉で言い尽くせません。これからの人生で大事な宝物になることは確かです。※

 

平成20年卒・宮下裕司

4年間はあっという間に過ぎました。充実という証に置き換えられます。関東中心の中で何とか日本一にという思いで幹部みんなと練習内容を工夫しました。同志社の精神の自由をプラスに考えてプレーするよう指示しました。個々がプレーに味付けするよう心掛けました。悩んだ時は池田さんから経験に基づくアドバイスをいただきありがたかったです。現役諸君は今後とも色々考えながら同志社大学の新しい歴史をつくり上げてください。※

 

平成20年卒・中井大輔

高校時代までとは一転し、大学では裏方として大半を過ごしました。表から裏へのギャップは耐え難かった。だがチームには注目され重圧と常に戦う選手、光の当たらないところで努力し続ける選手、そのチームを支えるマネージャー、監督、コーチ、OBの方々がそろって初めて成り立つものであると改めて学びました。同志社は皆が戦力の素晴らしいチームです。伝統を引き継ぎ名実共に不動の日本一のクラブになることを期待しています。

 

平成20年卒・寺島毅

卒業して早2年近くが経つ。入部当初、移動素振りができず、練習にもついていけなくて、辞めようと思っていたことがつい最近のことのように思い出されます。(笑い)今でも、あの時辞めずに続けて良かったなと改めて思います。そして、テニスを通じていろんな人に出会えたことに本当に感謝しています。現役のみんなも、テニスを通じた出会いを大切にして、同志社大学ソフトテニス部での4年間を充実したものにしてほしいと思います。

 

平成20年卒・大賀紘平

優しい先輩方、可愛い後輩、そして4年間、共に頑張った同期たち。私に関わってくださった多くの方々に感謝の気持ちでいっぱいです。

 

平成21年卒・中坂悠太

一言で言うなら辛く苦しい4年間でした。地方からやってきて憧れと期待を持って入部しましたが、現実は厳しく、自分の実力を思い知ることとなりました。しかし優しい先輩方や良き同僚、後輩、尊敬する監督、コーチ、OBの皆様から受けた影響は一生の糧です。苦労した辛い経験も今では良い思い出です。社会人2年目の若輩者ですがこの経験は確実に活きていると感じます。このような学生生活を送れたことを本当に嬉しく思います。※

 

平成21年卒・花田周弥

あっという間に過ぎた4年間。楽しい事も苦しい事もあったが仲間と一緒に乗り越えた。その仲間と飲む練習後のビールは何よりもおいしく、つまみはいつもアホみたいな話!イジり、イジられ、またイジり。そういう需要と供給を経て、それがパワーの源となって4年間戦い抜くことができた。得たものは大きい!前衛としての間の取り方、笑いを取りにいく間の取り方。それが糧となり、今では同志社大学ソフトテニス部を誇りに思っている。

 

平成21年・世利卓史

一番の思い出はやはりインカレ団体2位です。あの時はみんなが優勝に向かって必死で、がむしゃらで、無心で、ただ勝つことだけを考えていたんだと思います。高校とは違い、幹部になってからも自分たちでやらないといけない厳しさや難しさを知り、人としてすごく成長できたと思います。それも全ていい先輩、後輩、同級生、監督、コーチ、OBの方々に恵まれた中でこその事なので、すごく感謝しています。

 

平成21年卒・山下啓太

みんなで一つの目標に向かい、毎日死ぬほど声を出して一球に入魂し、試合では死ぬ気で戦い、声が潰れるほど応援したり、最高の4年間でした。同志社大学ソフトテニス部に入部したことで、選手としても人間的にも成長させていただき、最高の仲間もできました。これからも毎年のように後輩部員が活躍し、インカレ優勝という目標を成し遂げてくれることを信じています。

 

平成22年卒・岡田有右

厳しさもあり、楽しさもある4年間の部活動のなかで、人数が少なくて練習するにも厳しいという状況もありましたが、みんなで一致団結して同じ目標を掲げて練習に取り組めた事は良い経験になりました。また、ソフトテニスの技術的な部分はもちろんですが、社会に出て行くための大事な礼儀や気遣いなども学べたことについても感謝しています。

 

平成22年卒・阪口善広

私は同志社大学で4年間ソフトテニスができたことをとても感謝しています。辛いことや苦しいこともありましたが、OBや先輩の方々の支えがあって乗り越えられました。最後のインカレでは優勝することはできませんでしたが、納得のいくテニスができ、後悔はありません。しかし私達の代では悲願のインカレ団体優勝という目標は達成できませんでした。後輩達が私達には手の届かなかったこの目標を達成されることを切に願っています。

 

平成22年卒・仁木大輔

僕の同志社大学体育会ソフトテニス部の4年間は、楽しいこともつらいことも、数え切れないほどありました。そのどれもが今の僕を形成してくれた、とても大事なものとなっています。また、その思い出を共有した仲間たちには本当に感謝しています。厳しい練習を共に乗り越え、団体戦では共に一喜一憂したみんながいたからこそ、あの4年間があったのだ、と思えます。本当に充実した4年間を過ごさせていただきました。

 

平成22年卒・村上学

同志社大学ソフトテニス部に対しては本当に感謝の一言に尽きます。4年間を通じ様々なことを教わりました。自主自立の下「楽しくなければ勝てず、楽をしては勝てず」と学び、全員が一つの目標に向かって一丸となる素晴らしさを体感した。仲間が人生の故郷、気の寄り所であらねばならない。「故郷を巡る六部は気の弱り」という藤沢周平の詩のように創部80年を節目に同志社大学ソフトテニス部が永遠の心の故郷であり続けてほしい。※

 

《現役》

4年次生・垣内拓哉

中学から始めたソフトテニスで日本一になるため、さらには勉強との両立をするために同志社を選んだ。4年目にして、この選択に間違いはなかったと確信し、同志社で文武両道を貫けたことを誇りに思う。

 

4年次生・新井翔

同志社とは、自分を大きく成長させてくれた場です。部活動だけでなく、学業の面でも同じで、様々なことを学ぶことができました。アホやったり楽しく過ごすことができました。新島万歳。

 

4年次生・越智大輔

私は同志社大学に入学して新島襄先生の自由の精神を学びました。私は体育会ソフトテニス部に所属しているのですが、自由な中でも自分たちで活動する精神を養いました。その精神を糧に社会に出ても頑張りたいです。

 

4年次生・安部良輔

伝統と歴史を肌で感じ、そして革新を実感出来る場所です!!学生主体のキャンパスは一人の人間としての自覚を高め、同志社人としての礎を築かせてくれました。

 

4年次生・福田修一

4年間で同志社人としての誇りと社会に出ていく自信を持つことができました。常に大学の名を背負って戦い、母校に愛着を抱くことができました。多くのOBの方と出会い、教えを受けたことは一生の財産です。それを武器にメイド・インDOSHISHAの人間として社会で活躍していきます。

 

4年次生・片岡俊貴

今思えば短い4年間でした。勉学・部活動ともにレベルの高い同志社大学。両立を目標にした結果、充実した学生時代を過ごすことができました。それを通して様々な面で成長させてくれた同志社大学に感謝しています。

 

4年次生・金丸聖典

中学、高校とソフトテニスの面で完全燃焼し切れなかった気持ちをぶつけた4年間でした。たくさんの人にお世話になり、支えられてきました。このことに感謝してこれからの人生を歩み、ソフトテニス部にも恩返しをしていきたいです。

 

3年次生・竹口亮

私にとって同志社は自ら考え学ぶ場です。高校とは違い、同志社は自分から動かないと何もしてくれません。しかし、挑戦すれば多くの門戸が開かれています。そして良い仲間が沢山います。そらが同志社の良い所です。

 

3年次生・玉井直樹

私は同志社で沢山の事を経験している。中でも、仲間達と切磋琢磨している部活動のソフトテニスは貴重だ。

 

3年次生・野村有臣

同志社大学に入学しソフトテニス部に入部することで文武両道の難しさを実感しました。日々の練習と学業を両立することで自分自身大きく成長したと感じます。同志社大学は文武両道をやりきるという機会を与えてくれました。

 

3年次生・山本哲平

モットーは文武両道です。多種多彩な講義から学問を身につけ、学祭などの行事を通して同志社の文化や歴史を知ることができます。また部活動にも励んでおり、私にとって同志社大学は心身を成長させる貴重な場であります。

 

3年次生・柴田章平

同志社大学に入れたことを本当に嬉しく思っています。その理由は、こんなにも幅広くのOBの方々と関わりを持ち、色々なことを指導してもらえるからです。そして、自由な校風をとてもよく感じています。

 

3年次生・清水慶

自分にとって同志社とは憧れのようなものでした。でもいま実際に通っていると思うとすごいなって思います。同志社は自己を尊重していて、また周りからは何も言われず、自分で何もかもをしなければならないので大変である。

 

3年次生・澤田直樹

同志社を選んだ理由は高校に指定校推薦があったからです。同志社に入って良かったかどうかは現時点では分かりません。同志社を出てからその答えが分かると思います。

 

3年次生・太田重広

入学してからソフトテニスをしながら勉強も両立させないといけないので正直戸惑った部分も沢山ありましたが、先輩からアドバイスを頂いたり、友達と協力して充実した学生生活が送れていると思います。これから何十年たっても『同志社大学に来て良かった』と思えるように残り少ない学生生活を無駄にせず過ごしたいと思います。

 

3年次生・岡垣陽子

「アメリカの大学みたい」-一目惚れで同志社を目指した。難関を潜り抜けたのだから体育会で頑張ろうと決意した。女子一人の厳しい環境で何度も辞めたくなり今春ついに辞めた。しかし最後までやり遂げたい、今の幹部に期待したい、という想いからもう一度頑張ろうと思った。今後はブレることなくインカレ優勝への想いを貫き、チームのために努力したい。

 

3年次生・伊東大輔

同志社の『自主自立』という校訓にひかれて入学した。校訓通りに自分から動かなければどうにもならない環境であって、期待通りであったが困惑もした。しかしこのような環境が自分を成長させてくれ、2年前と比べ他人に依存することなく自分から行動できるようになったと感じる。

 

3年次生・赤岩志洋

同志社は年齢に関わらず、地域に関わらず、様々な人達が集まる環境だと考える。私はソフトテニス部に入ることで「インカレ優勝」を目指してきた。同じ目標でも一人ひとりの考えが違い、人間の深さを学ぶことができた。

 

2年次生・眞野泰志

同志社大学のソフトテニス部が全国大会で優勝することに貢献したく入学してきました。多くの人と出会い、学問などを通して人間性を鍛えることの大切さを学びました。これから技術だけでなく内面や人間性も鍛え全国大会で優勝したいです。

 

2年次生・増田健人

私は三重高校に進学したことで両親に大変迷惑をかけた。だから大学は実家から通え、関西で一番強い同志社大学に進学することを決めました。同志社のソフトテニスは伝統もあり、自分自身とても充実しています。これからも勉学に部活に精進していきたいと思います。

 

2年次生・藤崎拓夢

テニスが強いからこの環境でやってみたいと思い、頑張って勉強をして同志社に入りました。同志社は文武両道という考えが強いことを知らなかったので最初は戸惑ったが、高校と違い大学で文武両道を成し遂げることは後の人生に大きな影響を与えるものだと思うので同志社に入って良かったと思っています。

 

2年次生・子安裕太

働いていた私は友人から聞いた学生生活に憧れ、2年かけて同志社大学に入りました。正直いって嬉しかったです。大学では一番年上で不安でしたがみんなが関係なく付き合ってくれて楽しい学生生活を送っています。今後もたくさん学んでしっかりした社会人になるよう自己を磨いていきたいと思います。

 

2年次生・西村壮史

私が同志社への入学を決めた理由は、英語に興味があり、元は英学校だった同志社の英語教育にとても関心があったことです。最も大きな理由は実績と歴史のあるソフトテニス部に入部して、自分の力を試してみたかったということです。同志社で文武両道をモットーに謙虚な姿勢を忘れず、日々取り組んでいくつもりです。

 

2年次生・善野功太

私は同志社のことを何も知らずに入って来た。入って分かったのは、関東に行かなくてよかったと思っていることです。同志社に入って後悔はしていない。4年間で卒業して、それまで打倒関東で頑張る。

 

2年次生・石川直紀

同志社大学を選んだ理由はソフトテニスが西日本でトップレベルだからです。また学力も優秀な大学なので文武両道目指して頑張っていきたいです。

 

2年次生・山下和馬

学生の自由を尊重する校風に憧れて同志社大学に入学しました。同志社は自分のやりたいことが出来、さらに将来のためにいろいろ取り組める大学です。同志社大学に入学出来て良かったです。

 

2年次生・坂本拓規

私はソフトテニスの上達というだけの理由で同志社大学に入った。しかし、大学では高校ではなかった人間関係の複雑さ、難しさを感じる。私はそのようなことを通じて、大学で自分自身も向上させようと思う。

 

2年次生・天野翔

私にとって同志社大学は目標だった。勉学では関西トップの私学であり、ソフトテニスでも全国トップレベルである。私は今その目標だった同志社大学に在籍している。私にとって同志社は教師になるという次なる目標に向かい、文武両道を通して精進していくための最高の場である。

 

1年次生・中田和貴

私が同志社大学ソフトテニス部に入るきっかけになったのは、高校2年生の時に地元で開催された西日本学生選手権大会を見に行った時です。同志社の堂々とした風格のあるプレーに強い感動を覚えました。

 

1年次生・平原滉太郎

私が同志社大学に入学した理由は日本一を目指して毎日練習している同志社大学の環境の中で自分もテニスをしたかったからです。また同志社大学ではテニスをしながら勉強も私生活も充実した生活を送ることができるので入学できて本当によかったです。

 

1年次生・足立卓磨

私にとって同志社は私生活や部活動において自分自身を成長させてくれる場所です。授業で社会に出て必要な事を教わり、部活動でも勝つ喜びや負ける悔しさなどをとてつもなく感じました。同志社は私を成長させてくれる場所だと思います。

 

1年次生・岩崎彰宏

私はこの大学生活で何を成し得たいのか、それを漠然としたまま過ごしていた。しかし、ある一人の先生と高校の先輩による助言でソフトテニス部に入ることにした。それが私の大学生活でも目標をつくる事になった。今はその目標に向けて日々精進している。

<同志社大学体育会ソフトテニス部創部80周年記念誌より>