同志社ソフトテニス(軟式庭球)部史(80周年記念誌より)

このエントリーをはてなブックマークに追加

◎部史&追想トップページに戻る

~創造と伝統-栄光の部史をひもとく~

<伝統の礎-同志社大学軟式庭球部の創設>

『同志社で軟式庭球を始めたのは現在の商学部の前身である同志社専門学校高等商業部=1922(大正11)年開設=であり、当初は一乗寺にあった京都クラブのコートで猛練習を続けていた。1929(昭和4)年にその高商部が岩倉に移転したのを機に新設されたコートで活動するとともに軟式庭球クラブを結成した。同時に京都学生軟式庭球連盟に加入して春秋2回のリーグ戦に出場した。さらに同年には同志社高商部学友会に加盟して名実共に軟式庭球部の基礎が固まった。これが同志社大学軟式庭球部の発端といえる。その後、学生軟式庭球連盟の組織が関西から全日本へ拡大するとともにクラブ活動も一層活発になり、発足以降1933(昭和8)年までの5年間は関西学生軟式庭球連盟主催の全試合に完全優勝する偉業を達成した。この間、1931(昭和6)年に岩倉コート開設を記念して第1回全国中等学校軟式庭球大会を開催した。日本各地から優秀選手が参加して好試合を展開し成功を収めた。その後は選手層の希薄に加えて他校の集中攻撃に遭い、沈滞を余儀なくされていたが、雌伏の末に1938(昭和13)年の創立10周年には全国制覇を成し遂げ、太平洋戦争末期まで第2期の黄金時代を築いた。高商部を中心に展開された軟式庭球部の歴史は戦後に高商部の後身である同志社経済専門学校に受け継がれた。加えて同志社外事専門学校が新しく活動を開始したのをうけてこの両者が合併し、新たに同志社大学軟式庭球部が誕生した。体育会には1947(昭和22)年に加盟した。学制改革に伴う新制大学の開校は翌1948(昭和23)年である。この時期に誕生した他の運動部と同じように、発足時は今出川校地周辺に練習する場所が見つからず、苦難の立ち上がりであった。1951(昭和26)年には新しい部長と監督を迎えて組織を整えるとともに、懸案であった学内コートも今出川グラウンド東南端に整備され、1952(昭和27)年から1953(昭和28)年にかけて戦後の第1期黄金時代を築き上げた。大学軟式庭球の部史は、高商部と併せてその歴史は古く、業績としては輝かしいものを蓄積している』(全文を同志社大学体育会公式サイト「同志社スポーツ」より転記しました。一部分を修正したり加筆しております。ご容赦お願いします)

 

<輝かしい歴史の節目-「創部80周年」を寿ぐ記念誌>

ご覧のように資料によれば同志社大学軟式庭球部の創設は前身である同志社高商部の先輩諸氏が立ち上げた1929(昭和4)年であります。さすれば今年の2010(平成22)年は数えて81年目ということになります。OB会理事会でこの点を含めて種々検討を重ねた結果「実際の年月と少々のずれはあっても概ね80周年の“米寿”を節目として記念すべきであり、初めての事業として部の歴史やOB諸氏の思いを何らかの形で残すべきだ」との意見が大勢を占めました。したがってOB会員の皆様方にはまずもってこうした記念誌発刊の趣旨や背景などについてご理解を賜りますようお願い申し上げます。さらに我々が愛してやまない軟式庭球は1992(平成4)年にソフトテニスと改称されました。本誌では軟式庭球という呼称に深い愛着を持たれているOB諸氏の意向にも配慮して1991(平成3)年までの記述では軟式庭球・軟式庭球部としたうえ、翌年以降からソフトテニス・ソフトテニス部と表記させていただきますのでご了承のほど重ねてお願い申し上げます。

 

<無敵の草創期と戦後の第1期黄金時代>

戦前は創部した1929(昭和4)年から5回に及ぶ全関西大会を完全制覇したあと全日本・西日本の大学高専大会で団体・個人優勝を重ねています。先人の皆様方のお力で同志社大学軟式庭球部は草創期から学生軟式庭球界に君臨し、強力に牽引してきたのであります。

戦後の黄金期は1950(昭和25)年入部の19人が中心になって打ち立てました。この年次にはたんに人数だけでなく心技体ともに充実した逸材が全国各地から一斉に集まったのです。1952(昭和27)年は全日本大学対抗・全日本学生選手権(以降はインカレ団体・インカレ個人と表記します)ともに準優勝を飾りました。インカレ団体決勝は2-5で中大に敗れました。精鋭19人の1人中村秀夫氏から逸話が届いています。「インカレ個人決勝で朝倉・鳥井(日大)の朝倉選手が足を痛めた。腿かふくらはぎの筋肉痙攣だった。当時の規則では負傷休憩は10分間。朝倉選手の回復が思わしくないため同志社大学の明井雄二・八木満組は自らの10分間を日大側に譲った。再開後に激戦の末惜しくも敗れたが閉会式で三笠宮様から感激のお言葉をいただき、会場全体の絶賛を浴びた」。慈愛に溢れる同志社の理念が満天下に示されました。なんとも心温まるエピソードではあります。勝った負けたと一喜一憂してみても所詮は結果に過ぎません。「グッド・ルーザー(良き敗者)」という言葉がいぶし銀の輝きを放っています。どう勝ち、どう負けるか。わが同志社大学軟式庭球部の選手たちは全員が美しく、しかもクールでなければいけません。この時代にそのお手本があったのです。それだけで後輩の一人として至福の喜びに満たされます。昂然と胸を張りたくなります。こういう姿勢はおのずと真の強さを育むものです。

それを証明するかのように翌1953(昭和28)年にインカレ団体を初制覇しました。3回戦で青学大に3-0で圧勝した後、準々決勝は早大に3―2で競り勝ち、準決勝は中大を3-1で退け、さらに決勝は法大を3-1で見事に下しました。栄えあるメンバーは明井・八木組、末廣隆司・木本久雄組、三島衛・岡本守弘組、木嶋政雄・飯田睦郎組でした。2年次生の木本選手と1年次生の木嶋選手以外は全員4年次生でした。ちなみにこの年は前年インカレ個人準優勝の明井・八木が西日本学生選手権(以降は西日本個人と表記)を初制覇しています。戦後生まれの筆者はもちろんリアルタイムで目撃していませんが当時に関係された方々のお話しを総合してお伝えします。明井選手のフォアハンドは踏み込む左足をやや開き気味に構えて十分に引きつけながら打ち返します。柔軟なバックハンドとともに正確無比のストロークだったそうです。八木選手は華奢な体躯ながら軽やかなフットワークを身上とされました。横の動きは比類なき速さを誇り、その芸術的なストップボレーの精度は天下一品と評されました。

 

<国際親善試合の舌禍事件と流浪のコート探し>

前述の中村氏によるとこのインカレ団体初優勝直前の6月に“台湾舌禍事件”が起きました。「来日中の台湾代表との対戦が本学・学友会協賛で行われる際、学友会代表が『「傀儡政府台湾』とぶち上げて大騒動になった。友好親善試合でもあり、学友会や大学当局の陳謝で事なきを得たが渡辺敏一監督と三島主将が責任をとって退き、岡野久二氏と明井氏が新監督・新主将に就任した」。時は朝鮮動乱の直後です。極東の軍事・政治情勢の緊迫ぶりを物語るお話でした。試合は4-5で同志社大学が惜敗しました。

草創期から長く続いた数ある試練の中で先輩方が最も苦労されたのはテニスコートの確保でした。1951(昭和26)年に今出川校地校庭の南東角にある工学部わきに専用コート1面が出来ました。ようやく出来たホームコートでしたが「相国寺の隣で竹薮があり、時折竹の子がコートの中に出て来て、それを除いて水を撒き、ローラーをかけて整備に時間をかけ、ラインを引いてやっと練習が始まるのです。乱打も限られた短い時間で交代するので十分な練習は出来ません。団体代表を選ぶ部内リーグ戦は本番より力が入りましたね」(昭和29年卒・梶川瑛夫氏)。切磋琢磨。競争意識。これがいつの時代にも共通する強さの秘訣でしょう。そのコートの寿命も長くはなかったようです。正確には分かりませんが大学当局の都合で程なく潰されました。御所、二条城、紫野高校隣接地・・・その後は流浪の民がコートを求めてさ迷う日々が再びやってきました。大げさな表現ですが練習コート確保の苦労は長年におよび、何代にもわたる先輩諸氏が頭を痛め続けたそうです。

 

<岩倉コートから始まった第2期黄金時代>

同志社大学は残念ながら前述の1953(昭和28)年を最後にインカレ団体優勝の栄光から遠去かってしまいました。栄冠にあと一歩と迫った準優勝はこの前年を含めて1971(昭和46)年と1994(平成6)年に加えて2007(平成19)年の通算4度にのぼります。インカレ団体の覇権奪還は我々の悲願となりました。こうした中にあっても先輩たちによって築かれた草創期から始まる輝かしい実績は間断なく後の世代に受け継がれていきます。同志社大学は西日本の雄であり続けました。1954(昭和29)年に西日本大学対抗(以降は西日本団体と表記)で初優勝した勢いに乗ってインカレ団体では3位に入りました。その後は西日本団体を1956(昭和31)年と1959(昭和34)年に続いて1961(昭和36)年に制しました。

躍進の原動力となったのは仲村要先生でした。監督には1957(昭和32)年に就任されました。キリスト教精神に基づく教えは厳しくかつ愛情豊かでした。金看板の『文武両道』は我々同志社大学軟式庭球部にとって普遍の理念です。こればかりはどんな時代になっても変わりません。仲村先生がその後のわが部並びにOB会の発展にどれほど貢献されたかは言葉に尽くせません。先生が築き上げられた最初の黄金期は西日本団体・個人ともに2位に入りインカレ団体で3位に食い込んだ1962(昭和37)年が萌芽でしょうか。翌1963(昭和38)年から西日本団体で脅威の4連覇を記録します。偉業のスタートとなったその年は初めて春秋リーグを連覇しました。特筆しておきたいのはこの年に岩倉に硬軟各3面の専用テニスコートが完成していることです。果てしなく続いた流浪の旅は終焉しました。待望のホームコートが出来ました。練習は誰に遠慮することもなく、やりたいだけやれた(授業は最優先でした。今も昔もこれだけは変わりません。念の為に強調しておきます)のです。当時の強さが豊富な練習量に裏打ちされていたことは確かでしょう。

 

<底上げの成果がインカレ個人初制覇へ>

圧巻は東京五輪で沸き返る1964(昭和39)年でした。西日本団体2連覇の勢いは続く西日本個人戦で最大限に増幅しました。決勝は山本毅・磯貝治久組vs竹田幸市・森下直明組。4年生の山本・磯貝は岩倉の練習試合では下級生の竹田・森下にかなり分が悪かったのです。決戦前に仲村監督は4人を呼んで「存分にやれ」と激励しました。結果は山本・磯貝が勝ちました。「仲村監督が上級生に花を持たせろと竹田・森下に因果を含めた」。コート雀が囃し立てました。今でも語り草となっています。このコート雀たちはインカレで己の愚かさを知る羽目になりました。

西日本の再現かと思われた個人戦は準決勝で竹田・森下が明治ペアに敗れます。決勝で山本・磯貝はその明治ペアに完勝したのです。個人では同志社大学初のインカレ制覇です。筆者は当時高校1年生。歴史的な現場には立ち会えていません。やはり周辺の証言などをまとめますと、山本選手はとにかく徹底的に強打しなかったそうです。自在なバックハンドはともかくフォアハンドストロークから懐深く引き付けて放たれた打球は絶妙の軌道を辿りながら相手コートの中央深くに何度も何度もコントロールされました。正クロスで前衛に追われそうな時は思い切り絞ったそうです。センターから強打された球は磯貝選手のラケット面にことごとく吸い込まれてゆきました。絞られた球を苦し紛れにサイドへ流すとバックのハイボレー(もしくはボレースマッシュか)で難なくはたかれました。インカレ個人決勝は現役学生にとってこれ以上ない大舞台です。そんな痺れるような試合で落としたポイントがわずか数本だけという圧勝だったそうです。縁あって磯貝選手に可愛がっていただいた筆者は教わった前衛の基本を忘れてはいません。「相手後衛との攻防の間合い。動くまでの(あるいは動かない)ギリギリの『間』。それをモーションという。『間』のないやつは“間抜け”や」。「夭折」という言葉が身に沁みます。磯貝選手は20歳代の若さで天国に召されました。冷徹な現実が今でも悔しくてなりません。

先にこの年に勢いが増幅と表現した理由はわが同志社大学のレギュラー以外のペアが他大学の有力ペアを次々に破ったからです。仲村先生の得意で満足気なお顔が目に浮かぶようです。結束力。底上げされた全体の盛り上がり。いつの時代もそうですが一人や二人の英雄が居てもチームの力はたかが知れているのです。翌1965(昭和40)年は春季リーグを制して王座決定戦で法大を一蹴しました。これが初優勝でした。西日本団体は順当に3連覇を果たしました。続く1966(昭和41)年に西日本団体で当時としては未曾有の4連覇を達成しました。この年に中井靖彦・友次隆司組が西日本個人のタイトルを奪取しました。中井選手の打球は速く重かったそうです。一説によるとラケット面から弾かれた球は平ぺったく変形していました。横から見ると扁平な餅がUFOのようになって飛んでいったとか。いかに鋭い振りだったのか想像してみてください。友次選手は飄々として好戦的な雰囲気は微塵も感じさせません。ところがコースがストレートになると獲物を狙うアニマルに変身します。重要な場面になると面白いようにポイントを重ねました。読みの冴えです。前衛が全部取らなくても勝てる相手には勝てる。武器は相手によって使い分ければいいのだと友次選手のプレーから学びました。

全体の底上げという同志社勢の猛威はこの年も衰えていませんでした。その象徴となった試合があります。同じ西日本個人で3位に入った岡戸昌紀・小坂賢一郎組が勝ち進む途中の何回戦かでマッチポイントを握られました。そのマッチポイントは相手前衛の頭上に上がったなんでもないスマッシュでした。それで終わったはずでした。しかしその球は小坂選手のラケットのフレーム、いわゆる銀杏の部分に当たって逆ポイントになりました。嘘のような本当の話しです。これと似た場面は何度となくあります。筆者は監督時代に一度体験しています。そんな有り得ないドラマに出くわすたびに同志社大学軟式庭球部の数多の先達が築き上げてこられた歴史と伝統の重みをしみじみ思い起こすのです。

 

<仲村・山本コンビで第3期黄金時代を謳歌>

次の黄金期はすぐやってきました。西日本団体4連覇の翌年に山本氏がコーチに就任されました。まだ若く体力的に引けをとらないコーチは選手たちと一緒に汗まみれになりました。夕闇迫る時間帯に乱打の相手をしてもらった選手たちは数え切れないほどの数にのぼります。この頃から西日本の学生軟式庭球界は群雄割拠の戦国時代に突入していました。とくに関大、関学の戦力は充実しており、同志社は苦しめられました。しかし次の1968(昭和43)年には西日本団体の覇権を堂々の横綱相撲で奪回しました。2度目の春秋リーグ連覇(王座決定戦は日大に惜敗)を果たした結束力はシーズンを通して乱れませんでした。

翌1969(昭和44)年は秋季リーグを制したのが目立つ程度で夏の西日本、インカレをはじめ団体戦では見るべき成果を挙げられませんでした。とはいえ戦力は依然として充実ぶりを持続していただけに西日本における栄光の座は次の1970(昭和45)年にすぐ取り戻しました。圧倒的な強さで春季リーグを全勝優勝して王座決定戦に臨み、関東の雄・日大を互角の四つ相撲の末に退け、一昨年の雪辱を堂々と果たしました。勢いを持ち込んだ夏の西日本団体は準決勝の天理大戦で苦しみました。受け身に回った脆さを衝かれてまさかの展開となりました。一次戦で1-2の劣勢に立たされたのです。残った1、2年次生の岡田保・永田謙逸組がここから2組を連破する大活躍を見せました。この踏ん張りが奏功してどうにか無事に頂点へ返り咲きました。

注目すべきは続く1971(昭和46)年です。春季リーグを制して好スタートを切ったあと王座決定戦で躓きました。この対日大戦の敗戦で目が覚めたのでしょう。ここから破竹の進撃が始まりました。西日本団体は主力の3ペアがほぼ完勝して危なげなく連覇しました。団体戦の圧倒的な勝利が追い風になったかもしれません。個人戦は決勝で山中兼一・後藤憲介組が木口・横江組(中京大)の連覇を阻止しました。ゲームカウント0-4からの大逆転は今も伝説として語り継がれています。ちなみに木口組はこのあとインカレを制しました。山中選手は入学後に完成させた当時としてはまだ珍しいダブルファーストサービスが武器でした。ファーストサービスが入る確率は間違いなく90%を超えていました。驚異的だったのは時としてセカンドサービスの方が強烈だったことです。今のように丁寧に入れておく、あるいは置きにゆく感じではありません。厳しいコースを狙ってエースになった場面を何度も目撃しました。ストロークはフォアハンドに増してバックハンドの高い精度が群を抜いていました。苦しい体勢でも球をしっかり呼び込み、深い位置へ正確に返しました。無茶な振りは1本もなかったと記憶しています。辛抱強く丁寧な試合運びは終始変わりませんでした。

相方の後藤選手はそれまで層の厚い前衛陣の中で下積みの辛酸を嘗め尽くしてきました。最高学年になってその苦労が一気に花開きます。ガッツが全身にみなぎっていました。ギリギリまで待って猛然とダッシュする。そのポーチボレーの迫力は周辺の空気まで張り詰めさせました。現在も大和高田商と並んで同志社大学への入学者が多い三重高を強豪校に育て上げた龍大OBの垂髪隆一氏はかつてこう話したことがあります。「私は同学年の後藤選手のプレーぶりに強く惹かれました。彼のような前衛を育てたい。それが私の目標でした」。本人ならずとも嬉しい秘話ではありませんか。

さてこうして迎えたインカレ団体では予想通り難なく勝ち進みました。北山敏隆・永田組、山中・後藤組、岡田・大山憲一組という顔触れです。北山、山中、後藤選手が4年次生、永田選手は3年次生、岡田選手は2年次生、大山選手は1年次生でした。チームには西日本の雄としての風格さえ漂っていました。悲願となった2度目の大学日本一の座は手の届くところにきている。誰もがそう思い込んでいました。しかし決勝であえなく力尽きました。相手は日大でした。オーダーを一部変更した指導陣の作戦は結果として実りませんでした。栄冠はそれだけ重かった。簡単に栄光は輝いてくれませんでした。このあとも悲願は悲願のまま、宿願がそのまま宿願として後輩たちに引き継がれていきます。

 

<激動の時代-学園紛争はコートへも波及>

圧倒的な強さを誇ったこの第3期黄金時代ですが内実は過酷でした。全国各地を巻き込んだ大学紛争の嵐は同志社大学でも例外なく吹き荒れました。1969(昭和44)年秋のことです。新町校舎が封鎖されました。血気にはやった体育会本部役員たちはトラックをチャーターして岩倉にやってきました。「今から封鎖解除に向かう。協力してくれ」。荷台に乗り込んだ各部の“有志”は少なくありませんでした。

別のある朝のことです。岩倉のコートに来て愕然としました。当時はクレー、土でできたコートです。毎日のように鋼鉄製のローラーを転がして固めたうえ石灰を溶かしてラインを引く。今思えば気の遠くなるような作業が練習の前後にノルマとしてあったのです。その朝、棒杭か何かで土が深く掘り返されていました。大きな文字でした。掘り込んだ跡をよくよく見てみると『軟式低級』と読めます。『庭球』ではなく『低級』です。コートに面した壮図寮や近くの大成寮には寮費値上げに反対して学園闘争を主導した学生たちも多く居たはずです。『我々が天下国家の行く末を憂慮して命懸けで活動しているこの非常時に能天気にテニスに興じているとは言語道断である』。恐らくこういう論理だと思われます。朝早く、いや明け方でしょうか。黙々と棒杭を振るう学生の胸中もさぞや複雑で切なかったことでしょう。ひょっとしたら入学するまで故郷でテニスに打ち込んでいたのかもしれません。理由はともかく無残に傷ついたコートを修復しながら無性に腹立たしく悲しかったことが思い返されます。

<完全自主練習の実施と女子部の創設>

こんなご時世でした。授業はまともに出来ません。学内では団交が頻繁に開かれ、いつ行ってもキャンパスは落ち着きがなく、あたり構わず騒然としていました。大学の機能がほぼ麻痺した状況でこれまで通り部活動を続けられるのか。筆者ら新幹部は悩みました。悩みぬいた挙句に選んだ方式が完全自主練習です。いつ、だれが、どんな練習をしたいのか。幹部たちは出来る範囲で個別に支援することになりました。言葉ではどうしても奇麗事に聞こえます。今振り返っても実際は満足な運用とはほど遠かったことと思います。部だけでなく大学を去った部員もいました。もっともっと鍛え上げてやりたい有望選手たちもいました。すべてを救えなかった不作為については率直にお詫びしなければなりません。それでも幹部たちの指導なんぞ頼りにせず、軟式庭球が好きな一人ひとりが何の制約もないという逆の意味で厳しい環境の中で切磋琢磨していきました。十分な練習は出来なくとも考える力を持った部員たちでした。

この時期には同好会との意見交換会や合同練習会も開催しました。授業優先。自主自立。同好会よりもはるかに自由なわが部の内実を広く知ってほしかったのです。その後三井物産に就職した、当時の同好会会長は社交辞令もあったのでしょうが「もっと早くこんな機会を持つべきだった。自分の学生生活は大きく変わっていたかもしれない」と話してくれました。こうした試みの動機づけには常に仲村先生の仕掛けがあったように思われます。

今では遠い過去の物語になっていますがこの年に女子部をつくったのです。高額の学友会費をみんなと同じように納めながら体育会の部活動に参画できない。そんな現実はおかしいし許されない。入部希望した女子学生を門前払いする権利があるのか。一方で長年活動を共にしてきた同志社女子大学との関係はどうなるのか。OB会の賛否は真っ二つに分かれました。熱い議論が繰り返された末に女子部の創設は最終的に認められました。仲村先生が後々に予想されるであろう逆風(奥様は同志社女子大学OGでインカレ優勝時のメンバー)を覚悟のうえで裁定されたのだと推測しています。その後いろいろな事情があったのでしょう。女子部の存続は長くありませんでした。

一方、大学の部活動としては前代未聞の画期的な実験となった完全自主練習はその後に発展解消していきました。大躍進を遂げた翌1971(昭和46)年のシーズンは部員が練習内容を登録する教科単位取得のような丁寧な方式なども実践していました。より良い集団を目指してそれぞれの時代で飽くことなく試行錯誤を繰り返してきたのです。今となればこうした取り組みの成否は当時の部員一人ひとりの評価、判断に委ねるべきでしょう。ともかく激動する社会情勢、学内事情の中で真摯に創意工夫を重ねた部活動であったことは誇って良かろうと思うのです。

 

<西日本の雄、雌伏の歳月を重ねて>

第3期黄金時代は花火のように儚く短く終わりを告げました。インカレ団体準優勝の翌1972(昭和47)年からは2年連続で秋季リーグを制し1974(昭和49)年は春季リーグで優勝します。団体で挙げた凱歌はこの程度にとどまり、西日本団体の王座からも長く遠去かることになりました。しかしこの時期にも個人の関西学生選抜インドア(以降は関西インドアと表記)で無類の強さを発揮しました。この大会は1966(昭和41)年の第1回を竹田幸市・稲葉喜弘組が制したあと1969(昭和44)年第4回の辻憲三・高橋寛組から北山・河合洋一組、北山・永田組、一坪隆紀・永田組と栄光の歴史を刻み続けます。さらに同じ1973(昭和48)年に全日本選手権(以降は天皇杯と表記)で3位に食い込んだ岡田・大山組から加藤英明・松村聡組に引き継がれ、加藤・松村組が2連覇した1975(昭和50)年の第10回大会まで実にV7を果たしました。

この後もこの大会に限らず同志社勢は自然条件に左右されない室内大会で実力を示すことが多いようです。どう分析してよいのか。いろいろな評価は評価として『インドアに強い同志社』は確かな実績として各大会史に燦然と輝いています。その関西インドアV7の年は山本コーチが監督に就任された節目でもありました。監督就任を祝福するかのように加藤・樋上誠組が西日本個人で頂点に立ちました。小柄な加藤選手は脚力が抜群でした。とにかく予測が優れているうえにフットワークが飛ぶように軽いのでボールの落下地点に到達するのが早いのなんの。パートナーの樋上選手が冗談交じりに振り返ってくれました。「僕はボレー専門ですので上は深追いしません。すぐ後ろに任せます。手を抜いて浅いロビングを追わずに知らん顔をしていると大抵は真後ろに加藤が居るんです。信じられますか」。加藤選手のストロークはフォアもバックも振りがコンパクトで鋭かった。

この攻撃的な後衛の能力を樋上選手が存分に活かしました。壁を思わせるしっかりしたラケット面でいくら強打されてもひるまず、難なく弾き返しました。本人の話しの通り、上はもちろん横も無理に追わなかったのです。とにかく打たせました。相手後衛にも自分の後衛にも。それでも決して守り一辺倒の消極的な動きではありません。スマッシュは強烈でした。安定したストロークによるレシーブ力にも定評がありました。独特の個性を紹介するために少し誇張しましたが加藤・樋上が確立した一つのスタイルであったことは間違いありません。

 

<豊富な戦力を誇るも頂上は遥か遠く>

しばらく低迷した後で春季リーグを制した1978(昭和53)年は関西インドアで吉本和広・鶴岡繁組が優勝しました。秋季リーグを制した翌1979(昭和54)年は中村謙・田中伸和組が西日本個人で栄冠を手にしています。中村選手は長身を利した高い打点からの強打が魅力でした。緩急織り交ぜたストロークは常に安定していました。同期で卒業後の天皇杯で準優勝した大塚喜彦氏はこう評しています。「フォアハンドストロークの威力が凄かった。上背があった分だけ打点がとにかく高かった。がっぷり組んだクロスの打ち合いなら誰にも負けない正統派の後衛でした。コースをやたらと変えられて走らされると弱い面があったかもしれません」。小柄で俊敏なネットプレーが冴えた田中選手についても「ポーチボレーが鋭かった。追い足は速かったですね。左利きでしたからレシーブも苦にしなかった。いい前衛でしたね」と1年後輩を絶賛しました。

中村・田中が成し遂げた偉業の陰に秘話があります。もう時効だからいいでしょう。本人の了解は得ていませんが公にしても許してもらえると思います。この年のインカレ団体は3位。地力を備えた有力選手が揃っていました。シーズン前のペアリングで同期の名だたる前衛たちがそれぞれ中村選手以外の後衛を選びました。テニススタイルや相性などがその判断材料になったと思われます。結果として相方になった後輩の田中選手を決して軽く見た訳ではありません。とにかく中村選手は発奮しました。自分を評価しなかった有力前衛陣に対して強烈な敵意を燃やしたのです。「よーし。本番で見返してやる」。“その時”に備えて岩倉の練習試合ではその前衛たちに対して甘い配球を繰り返したのです。あれから時は流れておよそ20年以上も経っていました。この話しを本人から聞いた時は正直なところ驚愕して身震いしました。「こんな奴がホンマに居たのか」。覚悟。執念。根性。集中力。20歳過ぎの若者にそんな事が徹底できるものでしょうか。中村選手は実際に相方にも周りにも一切明かさず黙々と相手前衛に取らせ、取られ続けました。『普段の練習は試合のように、試合は普段の練習のように』。この心得自体は普遍の真理でしょう。それが根底から覆りました。試合のように練習したのか。練習のように試合をしたのか。筆者にはよく分からなくなりました。はっきりしているのは日々の練習に確かな目的意識があったという事実です。幸か不幸か同士討ちの場面は訪れませんでした。中村選手の思惑は外れましたがタイトルはしっかり掴み取りました。簡単に真似できる行為ではありません。褒められた選択とも思えません。それでも彼のこの覚悟や執念、根性、集中力を現役学生たちに学んでほしいと願っています。

 

<低迷期の仄かな光明と屈辱の入れ替え戦>

その後も毎年のように豊富な戦力を誇りながら一気に突き抜けることができません。1980(昭和55)年から3年連続で春季リーグを制覇しました。春に続いて秋季リーグも制した1981(昭和56)年は山本監督が勇退され、仲村先生が監督に復帰されたいわば“原点回帰”の年になりました。それでも劇的な躍進にはつながりませんでした。5組点取りのリーグ戦で安定した戦績を残せているのに西日本・インカレの栄冠には手が届きません。桑原力・藤田義雄組が関西インドアで優勝した1982(昭和57)年は西日本団体の決勝で敗れています。

雌伏の末に春季リーグをモノにした1984(昭和59)年にようやく西日本の覇権を奪回しました。1971(昭和46)年以来13年ぶりの快挙です。決勝開始前の整列に大商大が遅れてしまいました。「これは棄権やろ!」。審判たちへの抗議はまごつく大商大の機先を制する一撃でした。整列前から試合はすでに始まっていたのです。仲村監督の心理作戦に大商大はすっかり嵌ってしまいました。いったん掴んだ流れを最後まで放さなかった選手たちの集中力も見事でした。久し振りの美酒はしばし桃源郷の酔い心地だったことでしょう。しかしながらその美酒をゆっくり味わう暇はありませんでした。このあと先々で苦杯に次ぐ苦杯を甞めることになります。

翌1985(昭和60)年から森下氏が監督に就任されました。苦節の3年間を経て1988(昭和63)年に再び仲村先生が監督に戻られます。それでもこの時期のいわば“リクルート事情”をめぐる周辺環境は好転しませんでした。学内の推薦制度はマイナー種目にとってますます厳しい条件になっていきました。新戦力補強の内実は年々やせ細っていたのです。この間の1986(昭和61)年に京田辺校地が完成しました。大規模な体育施設も整備されました。テニスコートも数多のOB諸氏が苦楽を共に思い出を刻み込んだ岩倉から京田辺に移りました。新しい時代の到来でした。

1990(平成2)年から3年間は筆者が監督を務めました。未熟な指導力にお粗末な采配が重なって学生たちには苦労をかけました。無理矢理コーチになってもらった後藤、樋上、西宮正義の各氏にもひとかたならぬお世話になりました。1991(平成3)年の西日本団体3位や六大学王座獲得など見るべき戦果も幾つか残っています。残ってはいますが如何せん春秋リーグ戦で通算4度の最下位という体たらくは骨身にズッシリこたえました。輝かしい部史にあってこれほど度重なる入れ替え戦出場は例がありません。うち2試合は2-2の天秤となり、何本かは記憶にありませんがともに複数のマッチポイントを握られました。凌いだのは2試合とも4年次生の小林英之・矢崎和彦組でした。

本稿ではこれまでにインカレ・西日本個人王者の横顔やテニススタイルなどをやや詳しく紹介してきました。このあともその方針は継続します。巻末には個人記録も手厚く収容しています。一人ひとりの足跡を可能な限り残したかったのです。連絡が行き届かずに掲載漏れとなった方々も少なくないと思われます。謹んでお詫び申し上げます。そうはいっても勝ち負けにだけ拘るのは感心しません。もとより同志社大学体育会軟式庭球部は勝利至上主義を潔しとしないからです。文武両道。前途有為な青年たちを社会に送り出すことがわがOB会本来の責務であります。勝者も敗者もそれぞれ力を尽くして立派に戦ってきました。その成果に優劣のつけようはないでしょう。しかしながらそれでも敢えてなおビッグトーナメント制覇という快挙は無条件で讃えるべきだと思うのです。その栄光のすべてが伝統を誇る長い部史に燦然と輝く稀少な宝物だと信じております。

小林・矢崎はその功績においてこれら王者たちに比して何ら遜色はありません。編集者の役得を利したうえでの独断ながらそう信じています。部史に下部リーグ在籍経験はありません。伝統校がひしめく関西・関東リーグでそんな大学は同志社だけであります。二人はその金字塔を守り抜いたのです。広島・誠之館出身の小林選手は強打よりもつなぎに徹していました。粘り強さが身上でした。主務も務めた熊本・済々黌出身の矢崎選手は攻守ともに思い切りが良かった。至近距離からアタックされても怯まない闘志が魅力でした。奇跡の1部死守は神の御加護かもしれません。小林選手は都市銀行勤めですが神学部で学んだ矢崎選手は北海道・苫小牧でいま牧師として神に仕えています。

 

<三たびインカレ団体準V。平成黄金時代への予兆>

筆者が監督を務めた最後の年である1992(平成4)年にそれまで長年馴れ親しんできた軟式庭球という名称がソフトテニスに変更されました。また新しい時代が到来したともいえましょう。翌1993(平成5)年からさらに2年間を仲村先生にご指導願いました。これがご自身3度目となる短期間の現場復帰でした。その最終2年目にあたる1994(平成6)年に黄金期を彷彿させる快進撃を展開しました。この年は春季リーグも西日本団体も振るいませんでしたがインカレ団体で持てる潜在能力を爆発させました。佐々木貴士・大津竜二組、上田敦・梶川将史組、山本晃伸・樋原拓勇組。4年次生は主将の大津選手一人。上田、梶川、山本の各選手が3年次生。佐々木選手は2年次生、樋原選手は1年次生でした。準々決勝まで危なげなく勝ち進みました。これまで他の主要大会で何故勝てなかったのかが不思議に思われるくらいに圧倒的な力量を誇示していきました。それでも他大学との力の差は僅かでした。迎えた準決勝は日大との死闘となりました。2-2の天秤となり山本・樋原が主将ペアとぶつかりました。夕闇が迫っていました。試合が始まって間もなく前衛のその主将が身体にトラブルを起こしました。日大ベンチがそう言うから信じるしかありません。待って待って待たされて。仲村先生は「構わん。待ってやれ」。筆者は現場に居ました。前述した1952(昭和27)年の名勝負、明井・八木(同大)vs朝倉・鳥井(日大)戦なんぞ知る由もありません。ようやく回復して出てきたその前衛は再開後に山本選手の球を立て続けにポーチボレーしました。何ともいえない嫌な感じがしました。「ホンマに負傷タイムかいな?」。この不安は山本選手の強い精神力とルーキー樋原選手の無心のプレーがやがてかき消してくれました。この競り合いを凌いだ時点であたりはすっかり暗くなっていました。

関東勢同士の決勝なら恐らく翌日に回したことでしょう。個人戦開始前の朝一番に決勝戦を争う。そんな実例はこれまでに何度もありました。しかし学連は夜間の決勝戦を断行しました。とうの昔に決勝進出を果たしていた日体大は煌々と輝く照明灯の下で入念に調整していました。日大との死闘を終えたばかりで我がメンバーは心身ともに疲労しきっていました。誰ともなく「決勝は明朝」と思い込んでいたふしもありました。こんな状態では最初から勝ち目はなかったのかもしれません。「そんな言い訳は聞きたくない」とOB諸氏から切り捨てていただいた方が却って見果てぬ夢を逃がした未練を断ち切れようというものです。何時から始まったのか覚えていません。3組が3コートで同時進行という前代未聞の決勝で完敗しました。空前絶後。これほど悔しかったことはそれまでもそれからも覚えがありません。とにもかくにも1971(昭和46)年以来23年ぶり3度目のインカレ団体準優勝でした。大津主将のキャプテンシーが光りました。「大津に全部任す」。大会前に仲村先生がこう断言されました。先生はもちろん筆者を含めたOBたちは最後の最後まで一人もベンチに入りませんでした。

 

<個人戦では大躍進。黄金時代再来への序章>

1995(平成7)年から5年間は西宮監督が采配を振るいました。この年も強力な布陣が整っていました。それでも春秋リーグや西日本団体などで力を出し切れませんでした。西日本個人は佐々木・樋原組が制しました。1979(昭和54)年の中村・田中以来16年ぶりの快挙でした。当然のように関西インドアも圧勝しました。こちらは1982(昭和57)年の桑原・藤田以来13年ぶりのことです。佐々木選手はやや細身な体格ながら恵まれた上背を利したスケールの大きなプレーが印象に残っています。十二分にテークバックしてしっかりフォロースルーするフォアハンドストロークは羽ばたくように美しかった。バックハンドもかつての山中選手を思わせる安定感がありました。打ってよし。上げてよし。サービス力も隙を見て叩き込むコントロール力もどれもが絶品でした。樋原選手は不思議な魅力を発散する前衛でした。本人は認めませんがボレーは別としてストローク、スマッシュともにお世辞にも綺麗といえるフォームではありません。ところがミスをしません。基本に忠実なボレーは一級品でした。常に身体の正面でミート出来るように体勢を整えます。凄いのは相手の打球が予測したコースから少しズレた時です。身体の向きを器用にくねらせながら難なくこなしてしまう。俗にいう“球際”に滅法強いのです。

インカレ制覇への期待は日毎に高まっていました。団体で前年以上なら悲願の成就となります。しかしながら夢は夢で終わりました。早々とあっさり敗退しました。団体戦で勝ち切る難しさでしょう。「これほどのメンバーが揃いながら何故勝てないのか分からない」。学連関係者から疑問が出るのも無理はありません。なにしろ個人戦は上田・梶川が3位でベスト8に山本・西條竜太朗、佐々木・樋原。これだけ分厚い布陣でも関東の強固な壁に跳ね返されたのです。

それでも翌1996(平成8)年にはインカレ団体で3位に食い込んでいます。ここら辺でわが同志社大学が優勝争いの常連になるはずでした。ところが個人戦で華々しく戦果を挙げる一方で団体戦ではどうしても勝てないというジレンマがなお続きます。1998(平成10)年に鎌倉光成・奥山拓巳組が西日本個人のタイトルを奪取しました。鎌倉選手は柔軟なストロークが持ち味でした。手首がかなり柔らかかったと思われます。相手の強打が何本続いてもその都度簡単に吸収してしまいます。実際以上に懐の深さがありました。決勝戦は後衛の打球が滅法速い大商大ペアでしたがゲームになりませんでした。力む相手を軽くいなした感じです。いつも無心で余裕をもって戦っていました。苦しい時でもニコニコ笑っていた(ように見えた)のはそういう表情だっただけで内心では険しい闘いを繰り広げていたことでしょう。奥山選手はどんな場面でも迷いがありませんでした。絶対に躊躇しないのです。優れた前衛に備わった最も必須の要件だと思います。空中を猛スピードで飛んでいる球を瞬時に捉えるのです。集中しなくては対応できません。縦も横も動きは鋭く的確でした。相方が気持ち良さそうに打ちまくっている時は何もしません。これも勝負勘が冴えた前衛ならではのスタイルといえましょう。

 

<35年ぶりインカレ個人制覇。団体戦の奮起ならず>

奥山選手は翌1999(平成11)年にスーパールーキーの花田直弥選手を引っ張って西日本個人を自身は連覇し、そのまま1964(昭和39)年の山本・磯貝以来35年ぶりにインカレ個人の栄冠を獲得しました。関西インドアも無敵でした。無類の勝負強さを遺憾なく発揮した奥山選手の真骨頂はゲームの流れを読む力だったと思います。インカレ個人2日目にちょっとした山がありました。相手は九州勢で地力のある福岡大ペアでした。後衛の強打が炸裂し続けてみるみるうちに劣勢に立たされました。カウントは忘れましたが奥山選手が突然タイムを要求しました。やおらボール2個を掴んでバウンドを確かめ、空中に放り投げて歪みがないかを念入りに調べたあとで審判に交換を催促しました。ボールの状態が本当に不良だったのかどうかは本人にしか分かりません。しかし流れを変えるためにこの小休止はこれ以上なく効きました。再開後の相手後衛はすっかり別人になっていました。機に応じて判断を無意識に下せる冷静さ。これこそ頂点に上り詰める選手の最も重要な資質なのです。花田選手はそれほど体格に恵まれていた訳ではありませんが脚力、筋力、瞬発力・・・どれをとっても超一級でした。そうした身体的な運動能力以上にソフトテニスに対する感覚がずば抜けて鋭かったのです。フォアもバックもストロークの振りの速さは他の追随を許しません。ある公式戦でフォアのレベルスイングで放たれたボールがほぼバウンドせずに左横へ滑りました。相手後衛は当然ながら空振りノータッチ。コートにわずかに積もっていた砂の上にボールが乗ったのでしょう。そんな風にボールが弾まないまま滑ってひしゃげてエースになる光景は初めてお目にかかりました。末恐ろしい1年次生でした。このインカレ個人戦では準決勝で坂口大・松井厚樹組との同士討ちとなりました。ゾーンさえ違っていればインカレでは初の決勝同士討ちが実現していたことでしょう。それほど坂口・松井の充実ぶりは際立っていました。かえすがえすも惜しいことでした。

しかしながらこうした個人戦の大躍進も団体戦には一向に反映されません。不思議なくらいに勝てないのです。この年限りで西宮監督が勇退しました。バトンを受けた吉岡健一監督には翌2000(平成12)年から指導を仰ぐことになりました。この年は西日本団体決勝で天理大に惜敗しました。1次戦で大将ペアをファイナルタイブレークの6-1まで追い詰めながら信じられない大逆転負けを喫しました。複数のマッチポイントをみすみす逃がしました。文字通りあと1本、たったの1本が取れなかったのです。OBたちの誰もがこの力の差は実際以上に大きいと感じたものです。

 

<西日本団体の覇権奪還。黄金期への地ならし>

1年次生で学生日本一となったスーパールーキーの花田選手はその後苦しみました。学連主催の大会でさっぱり勝てない日々が続いたのです。しかし4年次生になった2002(平成14)年に鮮やかな復活を遂げました。主将としてチームをまとめ上げて西日本団体で堂々と王座に返り咲きました。1984(昭和59)年以来18年ぶりの覇権奪還でした。個人でも1年次生の藤木寛史選手と組んで2度目の優勝を果たしました。前日の団体決勝戦に続く関根・川村(天理大)との最終対決は熱く盛り上がりました。花田選手のストロークはこれまでの集大成のように執念がこもっていました。ボールは唸りを上げて飛んでいきました。そのほとんどが厳しいコースに突き刺さります。ロビングも常に攻撃的でした。このあとインカレ個人を連覇した川村選手は完全に封じられた前日のゲームを教訓に早い段階で勝負を賭けてきました。それでも花田選手が高い打点から繰り出すシュートボールの威力は最後まで衰えません。もつれにもつれた死闘は花田・藤木に凱歌が上がりました。藤木選手は三重高校の大先輩でもある花田選手と組んでも臆するところは全くありませんでした。詰める間合い。コースへの入り方。立つ位置。一発で仕留めるボレーの切れ味。どれもがとてもルーキーとは思えないほどの熟達した技量でした。思い切りの良い一つひとつのプレーが小気味良く、完成度の高さを披露した花田選手ともども絶大な存在感を示しました。ちなみに卒業後の花田選手は川村選手と組んで天皇杯で2度準優勝し、西日本一般は2度制しています。この年は西日本団体で勝った勢いのまま久し振りに秋季リーグも制しました。ただし、このあと続く2年間は個人戦で見るべき成果をそこそこ挙げたものの団体戦では全体を通して振るいませんでした。

 

<王座決定戦で決勝へ。西日本個人制覇も弾みに>

このあと2005(平成17)年に監督は田中克彦氏に引き継がれました。日体大OBの池田征弘氏にコーチ就任を要請して快諾いただきました。長い部史にあって他大学出身の指導者就任は初めてのことです。この年は春季リーグ2位で出場した王座決定戦で決勝まで進みました。力及ばず0-3で日体大に完敗しましたが躍進の手応えを掴む得難い経験でした。続く夏の西日本個人で世利卓史・松田和也組が優勝しました。これが長引きかけた閉塞感を一気に打ち破る契機となります。平成黄金時代の到来を告げるゴングが高らかに鳴り響きました。前衛の松田選手はこの時4年次生です。あまり早いカウントから仕掛けませんでした。レシーブも決して無理はしません。どんなカウントでも丁寧にそっと返球するだけです。最大の武器は展開を見通す力量でした。相手の心理状態を読むことに秀でていたのです。もちろんネットプレーは正確無比でした。だからロビング合戦になれば安心して見ていられました。ネットへの詰めが鋭くてボレーもスマッシュも抜群の決定力を誇りました。躍動感溢れる同期の藤木選手と比べると地味な印象を受けるほどオーソドックスなプレースタイルはいわゆる玄人好みでした。高田商の後輩だった世利を育て上げた功績も高く評価しておきたいと思います。

世利選手はこの年に入学した1年次生でした。小柄で顔つきも幼いので中学生かと錯覚するくらいです。フォアもバックも振幅の小さいスィングが最大の特徴でしょう。その小さい振りが実力の秘密を解き明かすキーワードとなります。ボールを手元まで十分に呼び込んでおいて厚い面で強引に捻じ込んでいきます。相手前衛の逆を突く、それもコースを少しずらすテクニックは芸術的でした。こんな後衛を相手にした前衛はきっと嫌でしょう。甘いポジションに立っていたら永遠にボールにさわれません。無理にさわろうとしたら身体のごく近くに打ち込まれて弄ばれます。一方で強打されたボールを何でもないようにフワリと返しておく繋ぎ球も滅法上手かったのです。これで苦しい局面に陥っても簡単に体勢を整えていきます。結果として味方前衛が勝負を賭ける余裕まで持てるのです。コンビネーションを生み出す天性の才能を秘めていました。世利選手はその後も着実に進化を遂げました。個人ではインカレ・西日本・関西(いずれもシングルスを含む)京都・全日本学生選抜インドア・関西インドアに至る学連の全栄冠を総甞めにしました。もちろん部史始まって以来の壮挙です。これ以降のビッグタイトルは後輩の越智大輔選手とのコンビで獲得していきました。世利・松田はこのあと関西インドアも制しています。この年は秋季リーグを制して次のシーズンへの足がかりをつくることに成功しました。

 

<個人タイトル相次ぎ獲得。平成の黄金時代到来へ>

翌2006(平成18)年は春季リーグを制して好発進しました。王座と西日本団体は勝利の女神に見放されましたが西日本個人で宮下裕司・花田周弥組が栄冠に輝きました。前年の世利・松田に続いて同志社勢として2連覇です。シングルスでもこの年から偉大な足跡が刻まれていきました。世利選手が西日本シングルスで初優勝しました。1960(昭和35)年の友田悦弘選手以来実に46年ぶりの快挙です。世利選手の1年先輩にあたる3年次生の宮下選手はこのあとのインカレでシングルスのタイトルも獲得しました。これは同志社学ソフトテニス部の長い歴史にあって初めての偉業でした。『天才的オールラウンドプレーヤー』。宮下選手にはこの称号を謹んで贈ります。ただし体力面で不安を抱えながら努力を積み重ねました。ただの天才ではありません。通常の学業とともに教職課程を律儀に履修する傍ら部活動にも誠心誠意打ち込む模範生でした。入学時からテニスの才能は抜きん出ていました。鋭いスィングで狭い所へもしっかり制球できました。小技のツィストもそつなくこなせます。何より予測力に長けていたので強打されても慌てません。サービスの威力も十分でした。胸のすく光景を覚えています。確かインドア大会でした。ゲームが緊迫してくるとロビング合戦になります。これ自体は何も珍しくありません。高いレベルになればなるほど打球に高さをつけて前衛を避けるのが常です。何球目だったでしょうか。自分の方向へ上がるとみた瞬間に前方へダッシュした宮下選手がそのまま中間距離からスマッシュして決めてしまいました。相手後衛の複雑な表情が印象に残っています。こういう予定調和を無視した創造力また想像力こそがあらゆる世界を発展させてゆくのです。

2年次生の花田選手は前述した花田直弥選手の弟です。紛らわしいのでこの項は周弥選手と表記します。周弥選手は先に紹介した松田選手をさらに純化したように玄人好みのプレーヤーでした。印象を一言でまとめれば『切れ』に尽きます。打球のコースにいったん入れば一発必中です。横の動きは秒速です。とくに追う、誘う、どちらのポーチボレーも切れ味は絶品でした。濃厚なラリーの応酬になればしめたものです。柔らかい動きからスーッとコースに入って叩き落とす。弾き返す。落とす。その呼吸はまさに芸術的でした。精神面での強さも見逃せません。これ以上ないほどのハイレベルで息が詰まるほどの緊迫感に包まれたゲームこそ周弥選手にはお似合いなのです。同志社勢お得意の関西インドアは世利・小川陽平組が制しました。世利選手自身は2連覇でした

 

<西日本団体の覇権奪回。インカレ団体Vの悲願叶わず>

真の平成黄金時代は2007(平成19)年に幕が開きました。春季リーグを制したあと王座で足元を掬われましたが西日本団体の覇権を久し振りで手にしました。2002(平成14)年以来5年ぶりです。決勝は対中京大。宮下・花田が宿敵の玉川・横江を下して優勝を決めました。苦労に苦労を重ねた上の薄氷を踏む勝利でした。開始直後から玉川選手のプレーは手がつけられないほどの出来栄えでした。アッという間にゲームカウント0-3に引き離されました。7回ゲームです。池田コーチの激に燃えた宮下主将がここから発奮しました。コツコツ追い上げてやっと追いついたファイナルゲームも熱く燃えたぎるラリーの応酬となりました。その激戦の末に歓喜の逆転優勝が完成しました。

個人戦の決勝は世利・越智が宮下・花田との同士討ちを制しました。西日本個人の決勝戦が同士討ちとなったのは1964(昭和39)年の山本・磯貝vs竹田・森下以来実に43年ぶりのことです。越智選手はまだ1年次生でした。大物ルーキーがビッグタイトルをかっさらって鮮烈デビューを果たすのはこのところの同志社大学の“専売特許”の感なきにしもあらずです。越智選手は小柄で一つひとつのプレーがコンパクトにまとまっていました。脚力や筋力、腕力など体力的には格別恵まれてはいません。しかし瞬発力は目を見張るものがありました。それと積極性です。好機には必ず攻勢をかけました。技術的に優れているのは打球処理の際に体幹が崩れない点です。バランスが良いので視線もぶれないから的確なミートが可能となります。負けず嫌いな性格も進化の要件だと思います。実際に年々パワーを増してひと回りもふた回りも大きく成長していきます。世利選手はシングルスで自身2連覇を果たしました。

満を持して乗り込んだインカレ団体のメンバーは西日本団体を制した宮下・花田、世利・越智、それに2年次生と4年次生ペア阪口善広・大賀紘平組です。阪口・大賀は西日本団体で天秤の窮地を救っています。3組とも強かった。緒戦から相手を全く寄せ付けません。3連覇目指す日体大を準々決勝で、地力がある中大を準決勝で難なく破りました。ここまで全試合3-0です。悲願のインカレ団体制覇は限りなく現実味を帯びていました。しかし決勝で早大に敗れました。夢は四たび叶いませんでした。1-1で迎えた1次戦3試合目で宮下・花田がマッチポイントを逃がして惜敗しました。1次戦で勝った世利・越智に2組を撃破する余力は残っていませんでした。『そんなに簡単には勝たせてあげませんよ』-そんな声がどこかから聞こえてきたような気がしました。天の配剤でしょう。神の思し召しなのでしょう。捲土重来。また努力を重ねて宿願を成就するしか道はありません。

団体Vを逃した鬱憤は個人戦でひとまず晴れました。宮下・花田が決勝で前年覇者の玉川・横江(中京大)とまたまた顔を合わせました。予想外の一方的な展開でした。力む玉川選手を宮下選手が淡々と追い詰めていきました。それほど強打するでもなくロビングでかわすわけでもありません。派手なプレーは1本もありません。ごくごく普通に無心でつなぐ姿勢が見て取れました。横江選手は視野に全く入っていなかったようです。打球のコースを見切った花田選手のボレーも随所で効果的でした。熱い決勝戦とはとても思えないほど静かな空気が流れる中で1999(平成11)年の花田・奥山以来8年ぶりの偉業が達成されました。翌日のシングルス決勝は同志社勢による夢の同士討ちとなりました。連覇を狙った宮下選手と後輩の世利選手が死力を尽くしました。ただ前日までに腰痛を悪化させていた宮下選手の気力も体力も限界に達していたのでしょう。積極的に攻めた世利選手が初の栄冠を獲得しました。ダブルスとシングルス。同志社勢の堂々たる2冠であります。しかもシングルスは同志社勢の2連覇です。こうなると団体の栄冠をあと一歩で逃がした口惜しさが今さらながらに蘇ってきます。この充実した戦力ですから秋季リーグも完勝でした。

 

<個人戦のタイトル次々と。栄華は欲しいまま>

翌2008(平成20)年は春秋リーグとも僅差で優勝を逃がしましたが西日本は団体で1971(昭和46)年以来37年ぶりの2連覇を果たすとともに個人で阪口・柴田章平組が頂点に立ちました。個人では同志社勢の4連覇です。阪口・柴田は先に開かれた西日本選手権を同志社勢として初めて制した地力を証明しました。阪口選手は強烈なフォアハンドストロークが武器でした。ボールを捉える面が厚くフォロースルーも大きかった。従ってボールはあまり回転しませんでした。だからロビングを除くと弧を描くボールは少なく安定感に欠ける恨みが常につきまといました。それでもしっかりコントロールされた時はこの上なく威力がありました。深くて左右への角度も際立ちました。高い打点で振り回されると相手前衛も後衛も脅威のあまりお手上げ状態になったものです。

1年次生のビッグタイトル獲得デビューの『伝説』は生きていました。ルーキー柴田選手はすでにナショナルチームのメンバーに名を連ねていた逸材です。ボレー、スマッシュ、ストロークのどれをとってもスケールが大きくて破壊力があります。脚力に加えて身体のばねが強靭です。エンドライン近くから打ち込むジャンプスマッシュは見応え十分です。しかしながら褒めるのはほどほどにしておきます。まだ現役で今年は3年次生です。これからまだまだ成長していくことを期待して厳しい注文もしておかねばなりません。プレーが往々にして雑になる嫌いがあります。丁寧にかつ思い切りよく処理するように心がけてほしいものです。

インカレ個人はその阪口・柴田を準々決勝の同士討ちで退けた世利・越智が初めて栄光の座に就きました。前年の宮下・花田に続く同志社勢の2連覇です。決勝では稲積・井口(日体大)を寄せ付けませんでした。世利選手の強打が随所で炸裂しました。井口選手の至近距離にぐいぐい捻じ込む圧力は絵になりました。越智選手も縦に横に躍動しました。勝ち方を知っている。そんな感じの誇らしい圧勝でした。山本・磯貝、花田・奥山とともに同志社勢で4度目となる学生日本一の称号にふさわしい力量を示しました。これほど日本一の座が身近に感じられる日が来るとはついこの間まで思いもよりませんでした。苦労を重ねた厳しい時代をご存知のOBの皆様方にとっては隔世の感でありましょう。誠に喜ばしい限りです。さらにこの年はシーズン最後の全日本学生選抜インドアも世利・越智が初制覇しました。多くの先輩たちが決勝、準決勝で何度も涙を飲んできただけにこれも意義深い勝利でした。決勝はやはり稲積・井口が相手でした。ゲーム展開までインカレ決勝の再現でした。手も足も出ないという表現がぴったり当てはまります。伸びやかに打ちまくる世利選手。測ったようにボレーをミートする越智選手。再び完勝しました。思えば2007(平成19)年のインカレ団体準々決勝で顔を合わせた時にいとも簡単にあしらわれてからの苦手意識でしょうか。日体大の大将ペアは世利・越智の顔はもう二度と見るのも嫌な心境だったことでしょう。同志社勢にとって相性の良い関西インドアはやはり世利・越智がモノにして世利選手自身3度目の栄冠に輝きました。

 

<栄光の4連覇再び。黄金時代のゴール目指す>

2009(平成21)年春に北山氏が監督に就任しました。春季リーグを制して臨んだこの年の王座決定戦は日体大に屈して3位でした。2連覇で迎えた西日本団体決勝は愛学大との前代未聞の土砂降り雨中決戦でした。後衛が強打できない状況が続く中で必然的に前衛の決定力が明暗を分けました。苦戦続きの2連覇を含めていろんな要素が絡み合っての栄冠だけにいっそう値打ちのある3連覇となりました。個人ではルーキーの活躍伝説がまた証明されました。増田健人選手がシングルスの覇権を獲得したのです。緒戦から圧倒的な強さを発揮して危なげなく頂点に上り詰めました。今後の飛躍が大いに期待されます。関西インドアは西日本個人2位の阪口・柴田が優勝しました。今年2010(平成22)年春からはOB会の推薦に基づいて大学長の委嘱を受けたフルタイムの非常勤嘱託職員として不肖筆者が監督補佐を務めております。今年は3季連続となる春季リーグ優勝を果たして東上した王座決定戦で再び日体大に敗れて3位にとどまりました。いつの時代も当面の目標となってきた西日本団体は決勝で前年同様に愛学大を退けました。1966(昭和41)年以来実に44年ぶりとなる2度目の4連覇です。増田選手と組んでチームを牽引した越智主将の冷静なプレーは高く評価されます。さらに1-1の天秤勝負をストレートで勝ち切った3年次生と2年次生の清水慶・石川直紀組の集中力は今後に向けて大きな収穫となりました。得点源の柴田選手はチャイニーズカップ出場のために出場していません。それでも執念を燃やして栄冠をもぎ取った底力は大したものです。このあとも連覇の偉業を達成し続けるだけの力は十二分に備えています。しかしながらすぐそこまで近づいたかに思えたインカレ団体の栄冠は再び遠のいています。早大に敗れて通算4度目の準優勝に終わった2008(平成20)年以降は明大、早大にいずれも準々決勝で惜敗し、今年は準決勝でまた早大に跳ね返されました。

 

<“老・壮・青”集うOB会と日本一のクラブ目指して>

有名私大が積極的な門戸を広げた結果として近年は戦力が分散均衡する傾向が強まってきました。西日本では一時期の天理大や大商大のように自由自在に有望新人を補強して戦力が特化することはもう有り得ないでしょう。これは推薦枠が極端に狭い同志社大学にとってはむしろ好都合かもしれません。しかしながら東日本では早大と日体大にインターハイで好成績を収めた選手はもちろん、戦績がそれほどなくても将来性のある高校生たちが集中しています。とくに今年でインカレ団体4連覇を果たした早大への人気は高く、大学側の推薦枠の拡充とともに部とOB会が一丸となったリクルート面での努力や入学後の手厚く緻密な指導体制など当方が見習うべき点が多々あります。文武両道の旗印を高々と掲げつつ西日本団体の連覇を重ねる一方で悲願のインカレ団体を制覇する。果てしなく広がる夢を我々が叶えるためには早大という当面の壁が大きく立ちはだかっております。早大をどう打ち負かすか。どんな練習をすればそれが可能となるのか。日常生活を含めてどう指導すればよいのか。山積する課題を片付けながら同志社大学ソフトテニス部は常に前進していかなければなりません。

さて、ここまで栄光の部史を縷々ひもといてまいりました。お気づきのように勝った負けたがどうしても表面に出てしまいます。嫌な表現ですがいわば“勝ち組”の紹介に紙面を割き過ぎたきらいもあります。文中であらかじめお断りしたとはいえ結果としての「勝利至上主義」モードに対してご気分を害された方々も少なくないかもしれません。その点は改めてお詫び申し上げます。栄光の足跡を細かく紹介はしましたが、連綿と続いてきた部史のひとこまひとこまを克明に刻み込んでこられたのは紛れもなくお一人おひとりのOBの皆様方なのであります。このことを改めて確認したうえで時々に渡るご労苦に最大限の敬意を表したいと存じます。本誌にはご無理をお願い申し上げまして200余人のOBの方々に現役時代の思い出をお寄せいただきました。文章ですから肉声ではなく肉筆ですがすべての言葉と行間に語りつくせぬ熱い思いがこめられています。卒業生一人ひとりが英雄(“Doshisha Heros”)であり続けてほしい、永遠の青春を生き抜いてほしいと、心から願っております。一方で本誌の編集作業を通して戦績をはじめ結果として不本意な部活動を過ごしたと自覚されておられるOBの皆様の多いことも改めて分かりました。原稿をいただけなかった方々の多くは「今さら面倒くさい」「書くのはどうも苦手や」などという消極的不参加ですが「輝かしい青春の4年間ではなかった」「いい思い出は残っていない」という負の苦々しい感慨を胸中深く仕舞い込んでおられる方々も少なくありませんでした。「どうしても寄稿する気になれない」とおっしゃった方も複数ありました。伝統を誇る古い組織が抱え込んでしまう必然的な十字架かもしれません。これは今後のOB会に課せられた半永久的な重い宿題であります。

故仲村要先生は「“老・壮・青”が相集う理想のOB会とともに日本一のクラブづくり」を我々後輩たちに託されました。80周年の節目を迎えて振り返りますと、先生のご遺志に叶う組織に成り得ているかどうか。はなはだ心もとない限りであります。OB会は会員の皆様方からいただく会費で運営しておりますが財政状況は芳しくありません。会費納入者は全会員の半数に満たないお寒い現実が残念ながら続いております。理想のOB会づくりに向けた課題は今なお少なくありません。一方でソフトテニス部の究極の目標は決して『日本一強いクラブ』ではありません。“品行方正”かつ“明朗闊達”で“倜儻不羈”な“礼儀正しい”若者たちを育て上げる『日本一のクラブ』なのであります。青年たちを巡る社会情勢は厳しさを増しております。不断の丁寧な指導がますます欠かせません。OBの皆様方には今後とも現役学生たちへの心温まるご支援とともに卒業生全員の心の故郷であります同志社大学ソフトテニス部OB会の活動によりいっそうのご協力を賜りますよう心からお願い申し上げます。

       (文責・高橋寛(1971(昭和46)年卒))

   <同志社大学体育会ソフトテニス部創部80周年記念誌より>